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社説・コラム

社説 「はだしのゲン」閲覧制限 戦争から目を背けるな

 国内外にメッセージを送り続ける不朽の名作ゆえだろう。漫画「はだしのゲン」を小中学校の図書館で自由に手に取らせないよう求めた松江市教委への批判が全国に広がっている。

 どんな理由を付けたとしても、原爆の悲惨さを子どもたちに伝えることに後ろ向きだとみられても仕方あるまい。今回の判断がもたらす波紋を、どこまで深刻に考えていたのだろう。

 きのう市教育委員会議で閲覧制限の是非を協議したが、結論は持ち越された。この際、早急に撤回すべきである。

 ここは作品の意義を見つめ直したい。昨年死去した中沢啓治さんが父と姉、弟を原爆で失った体験を主人公に投影し、少年誌に連載を始めたのが40年前のことだ。最終的には被爆9年後までの生きざまを描いた。

 多くの国民が「ゲン」を通じて核兵器の脅威を脳裏に刻んだはずだ。原爆被害の告発だけではない。戦時下の生活や戦後の混乱も庶民の視線で描き、戦争とは何かを問い掛けてきた。

 今やヒロシマの代名詞ともいえよう。その重みを考えれば、市教委側が並べた理屈は、あまりにも空虚に思える。

 「過激な描写が子どもにふさわしくない」というのが、これまでの説明である。物語の後半に出てくる旧日本軍の残虐行為を指しているようだ。事務局が単独で判断したとするが、こうした部分を問題視した市民が撤去を求めた市議会への陳情が発端となったのは確かだろう。

 閲覧制限は歴史認識の問題ではなく、子どもの発達に影響を及ぼすためだとする言い分は説得力に欠ける。これまで普通に開架してきたはずだ。一部表現が衝撃的だったとしても、命の重みを考える「ゲン」の教育的な意味は変わるまい。

 そもそも戦争とは残酷極まりない。子どもへの配慮を口実に、そこから目を背ける発想があるとすれば見過ごせない。

 市教委による全小中学校長のアンケートでは「ゲン」の閲覧制限が必要としたのは1割だけだった。足元の教育現場も今回の措置には納得していない。

 いま若い世代は戦争被害を自分のものとして実感できなくなっている。一方で戦争の悲惨さに目をつぶり、正当化しようとする空気もある。だからこそ原爆や戦争の負の側面をしっかり子どもたちに教えるべきだ。もっと「ゲン」を読ませたい。

 広島市教委の取り組みを参考にしたい。本年度から独自のテキストに引用して平和教材として活用している。松江市はもちろん全国の学校も図書室に置くだけではなく、平和教育で「ゲン」をどう生かせるかを考えてはどうだろう。もし作品の表現が過激だと気にするのなら、教員がしっかり説明すればいい。

 図らずも今回の問題であらためて注目が集まり、版元は増刷に踏み切ったという。核兵器廃絶に向けた世論の高まりが求められる中、作品の再評価のきっかけとなるに違いない。

 政府の姿勢も問われよう。下村博文文部科学相は松江市教委の対応をあっさり容認したが、第1次安倍政権の「ゲン外交」を知らないのだろうか。当時外相だった麻生太郎氏が自らの肝いりで英語版を各国政府に配って核軍縮をアピールした。いうなれば「国家公認」の作品であることも忘れてはならない。

(2013年8月23日朝刊掲載)

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