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社説・コラム

『論』 東京五輪と福島、広島 手放しで喜ぶためには

■論説主幹 江種則貴

 はばかりながら想像してみる。もし私が安倍晋三首相だったら、あそこまで思い切った物言いができただろうか。

 2020年の五輪とパラリンピックの開催地が東京に決まった。文句の付けようがない圧勝は、安倍首相らの直前プレゼンテーションが決め手になったとされる。

 首相は国際オリンピック委員会(IOC)からの質問に答え、福島第1原発から漏れ出す汚染水について「影響は0・3平方キロ(港湾内)で完全にブロックされている」「将来も健康に問題はないと約束する」と明言した。

 確かに港湾内の海中にはカーテン状のシルトフェンスが張られているが、海水の流れを止めることはできない。首相のいう「完全」は程遠い。

 将来も健康に影響はないとの断言も、どうだろう。いわれのない国際社会の風評に対し、必要以上に怖がる心配はないと言いたいところではある。だが低線量被曝(ひばく)の健康影響は完全に分かっていない。広島、長崎の被爆者に、がんなど後障害が見られ始めたのは、5年ほどたってからだ。

 はったりと言うほかない。首相自身も自覚するのか、東京開催が決まった後はむしろ一歩引いているように見える。汚染水を完全に封じるという国際公約の重さを痛感しているのだろう。何より、言葉による「臭い物にふた」方式は、フェアプレーという五輪精神に似合わない。

 とはいえ決まった以上、とやかく経過を並べ立てても詮ない。国際公約を果たし、内外に誇れる大会にする努力を重ねるしかあるまい。

 その成功の条件とは何か、五輪憲章から考えてみたい。五輪哲学や理念を表現した「オリンピズムの根本原則」の第2項に、こうある。

 「オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和の取れた発達に役立てることにあり、その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある」

 東日本大震災からちょうど2年半。被災者の尊厳とはまず、行方不明者の捜索を丹念に続け、亡くなった人を記憶に刻み、そしてこれ以上の震災関連死は出さないことだ。生き抜いた人々が、かつての生活を取り戻すことだ。

 開催までの向こう7年間、それこそ国を挙げて全力で取り組みたい。膨大な投資をつぎ込んで首都ばかりが栄え、一極集中の弊害が進むようでは、復興に資するという東京開催の大義名分は色あせてしまう。

 また五輪憲章の「IOCの使命と役割」にはこうある。「環境問題に関心を持ち、啓発・実践を通してその責任を果たす」

 東京を選んだIOCは、さらなる汚染水漏れがないよう連帯責任を負ったとも受け取れる。原発の再稼働や輸出に前のめりな安倍政権の姿勢が、もし新たな放射能漏れ事故を生んだとしたら、それも国際公約違反となろう。

 ここは原発に頼らない社会づくりへ、再生可能エネルギーの普及を一気に加速させてはどうか。省エネを徹底した五輪にすることも責任を果たす道となるはずだ。

 被爆地にとっては2020年に因縁がある。かつて広島市は核兵器廃絶の目標時期と重ね、この年の五輪招致を検討した。しかも今回の東京五輪の会期はちょうど長崎の原爆の日、8月9日まで。かつて「草木も生えない」と言われた75年の節目でもある。  そこで、恐れながら私が首相だったら…。「核は人道にそむく。被爆者が存命のうちに、できることなら20年までに、核のない世界を必ず実現する」。はったりでなく、有言実行といきたい。

(2013年9月12日朝刊掲載)

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