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社説・コラム

今を読む 「禎子の折り鶴」真珠湾に

平和と融和の使徒として

 「まさか妹の折り鶴が真珠湾で展示されるとは。禎子は目を丸くして驚いていると思います」

 佐々木禎子さんの兄雅弘さんの言葉だ。

 21日、真珠湾のアリゾナ記念館公園で行われた禎子さんの「折り鶴」展示の除幕式に出席してきた。4月からハワイ大学の客員研究員として真珠湾攻撃と原爆投下の政治学分析をしている私の意見も「ありえないこと」だった。

 記念館慰霊塔は、爆撃を受けて1177人の兵士の命とともに沈没した戦艦アリゾナの船体をまたぐように海上に建てられている。海軍軍人が操舵(そうだ)する船に乗る待ち時間に「強制的に」記録映画を見せられる。

 私が初めてアリゾナ記念館を訪れたのは、今から20年以上も前になる。当時の記録映画は、日本(人)のずるさ、卑怯(ひきょう)さ、残忍さが手加減なしに物語られていた。日本人として居心地の悪さを通り過ぎて、いたたまれなくなったことを今でも覚えている。

 説明するまでもなくアリゾナ記念館は、真珠湾攻撃で犠牲になった兵士を弔い記念する場所だ。しかし、記念館を含めた真珠湾が伝える物語は、もっと重く深い。

 それは、ルーズベルト大統領が攻撃翌日の対日宣戦布告の要請演説で使った言葉「屈辱」が象徴している(「屈辱の日」演説と呼ばれる)。日本によって着せられた「屈辱」を胸に、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にして完全勝利を誓ったことを思い出す聖地である。

 さらに日本に対して原爆投下も含めた戦闘により完全勝利をした米国の偉大さを再確認する地でもある。それは、公園の名前にも表れている。

 「太平洋第2次世界大戦武勇記念国立公園・アリゾナ記念館」

 さて、禎子さんの「折り鶴」。私も小学6年生の修学旅行で平和記念公園を訪れ、クラスで折った千羽鶴を手向けた。「戦争のない平和な世界を」という願いを込めてだ。しかし、禎子さんの手によって折られた「折り鶴」の意味はそれだけではない。

 原爆の残虐性、無辜(むこ)の少女までもが犠牲者になる無差別性、そして後障害がいつ発症するかわからない放射能の恐怖―米国の戦争行為に対する全面的な否定も包含している。

 つまり、相反する意味を象徴する「真珠湾」と「禎子さんの折り鶴」は、とても「併存」できるものではなかった。終戦50周年にワシントンで予定されていた、広島原爆を投下したエノラゲイ展中止という前例がある。被爆者の遺品や史実に基づいた展示内容が退役軍人と保守派の猛反発にあい、博物館に対し連邦政府予算を削減するとまで脅され展示は中止、館長は辞任に追い込まれた。アリゾナ記念館も連邦予算によって運営されている。

 ではなぜ、戦争を称(たた)え記念する聖地に、「折り鶴」の展示が実現したのか。

 戦後70年近くになり第2次世界大戦退役軍人の政治的影響力が劇的に低下したこと、原爆投下を決定した大統領トルーマンの孫クリフトン・トルーマン・ダニエルさんが知人の記念館学芸員に展示を働きかけたこと、佐々木家の仲介役として活躍されたニューヨーク在住の源和子さんの存在などがある。

 決定的な理由は、世代交代による国立公園を管理する職員・学芸員の意識変化、テーマの転換だ。

 今から3年前、アリゾナ記念館展示館の大変革が行われた。「リメンバー・パールハーバー」は「屈辱を継承する」という意味から、「パールハーバーから平和へ」と大転換した。

 これまでは米国側の視点の写真や解説などの展示物しかなかったが、転換後は史実に基づき、幕末までさかのぼって真珠湾攻撃に至るまでの日本の歴史・社会的背景なども展示してある。そして、戦後の融和、戦争の被害者は兵士だけではなく少女さえもが犠牲になることも。

 戦争の悲劇と平和への願いを受け入れる寛容性が真珠湾に芽生えていた。こうして禎子さんの折り鶴は平和と融和の使徒として真珠湾に降り立つことができたのだ。

広島市立大国際学部教授 井上泰浩
 山口市出身。毎日新聞記者を経て米ミシガン州立大博士課程修了。01年から広島市立大に勤務、07年教授。専門は政治とメディア、米ジャーナリズム、ネットと社会。ことし4月からハワイ大マノア校客員研究員。著書に「メディア・リテラシー」など。

(2013年9月28日朝刊掲載)

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