×

社説・コラム

社説 被爆再現人形の撤去 体験継承のあり方問う

 広島市が、原爆資料館に展示している被爆再現人形の撤去時期について「2016年3月ごろ」と表明した。

 耐震改修工事に合わせ、展示内容を現物資料中心へとリニューアルするため、と市側は撤去の理由を説明している。

 理解を示す市民や来館者は少なくない。半面、撤去反対の意見も根強くある。被爆体験を継承するために、資料館に何をどう展示すべきかの議論は、まだ尽きていないといえよう。

 ただ、あの日の記憶を受け継ぎ、世界に向けて発信する被爆地の使命も尽きることはない。この際、資料館の展示にとどまらず、体験継承のありようをさまざまな角度から見つめ直す契機にしよう。

 黒焦げの弁当箱、8時15分で止まった時計、ぼろぼろになった衣服…。犠牲者の遺品は物言わずとも、この世とは思えない惨状を雄弁に語りかける。

 見た目の迫力にとどまらない。持ち主はどんな目に遭い、どれほど無念だったか。遺族の悲嘆はいくばくか。遺品の背後にある悲惨を思うとき、誰もが胸にこみ上げるものがあろう。

 誇張を交えず、事実をありのまま後世に伝えるのも、あの日を見た物ならではの重みだ。

 写真や被爆者が描いた絵画を除き、資料館は約2万1千点の現物資料を収蔵する。ところが館内に常時展示できるのは、2%に当たる約420点にすぎないという。可能な限り多くの現物資料を並べたいという資料館の考えはうなずけよう。

 一方、逃げ惑う被爆者の姿を再現した等身大の人形。プラスチック製だが、今にも「水を」とのうめき声が聞こえそう。

 むごさに目を背ける子どもたちがいる。「こんなもんじゃない。実際はもっとひどかった」と被爆者は語る。

 原爆の破壊力を忠実に再現することはできない。少しでも惨状に近づこうとすればむしろ、その後につくられたものが訴求力を持つ場合はあり得る。被爆をテーマにした文学や映画などと同様の「物語の力」である。

 それゆえ人形の撤去に「待った」の声がかかる。それは裏返して言えば、資料館の新しい展示計画が十分に理解されていないためではなかろうか。

 遺品にまつわる関係者の思いが伝わるよう、遺影を並べるなどして展示説明を充実させると資料館はいう。ならば、その具体的なイメージも含め、市民や来館者に新たな資料館像をしっかり紹介してもらいたい。

 人形を撤去するとしても、最新の技術を駆使し、代替となる映像作品はできないか。編集や再生機器を工夫することで、悲惨極まるシーンを子どもには見せない配慮は可能だろう。他の場所での人形の再活用策も忘れてはなるまい。広くアイデアを募ってはどうだろう。

 間もなく被爆70年。閃光(せんこう)を浴びた建物は少なくなり、街はこざっぱりと美しくなった。復興を遂げた姿は先人たちの努力の結晶であり、市民の財産であろう。しかし整った街並みは同時に、時にあらがう体験継承の困難さも思い知らせてくれる。

 その意味で、これからも時がたてばたつほど、資料館が果たす役割は高まるに違いない。来館者の記憶の深いところに何を刻みつけてもらうか。その方策を市民一人一人が考えたい。

(2013年10月20日朝刊掲載)

年別アーカイブ