×

社説・コラム

『論』 茶の湯とヒロシマ 文化の根を枯らすまい

■論説副主幹 佐田尾信作

 想像以上に暗い。しかも雰囲気を壊さないよう、時間の限られた撮影だった。本紙の写真記者も苦労したようだ。

 9月下旬、京都市・西本願寺であった上田宗箇(そうこ)流による茶会。会場は歴代門主が執務に使った国宝黒書院である。日ごろは非公開の江戸初期建築で、上田宗冏(そうけい)家元(68)が大谷光真門主(68)にお茶をたてる。開会前の張り詰めた空気は当方にも伝わってきた。

 400年前の故事に基づく。1613(慶長18)年、本願寺の准如(じゅんにょ)が、親交のあった紀州藩浅野家の武将茶人、上田宗箇を茶の湯でもてなした。後に広島へ移る浅野家は本願寺に紀州の土地を寄進した浅からぬ縁がある。翌年は大坂冬の陣。戦国の動乱を生き抜く者同士の謀議を含んでいたのかもしれない。

 だが、この茶会は単なる故事の再現ではなく、宗箇が継承した武家茶の様式の再現でもあった。伝統文化は文化財や歴史的空間だけではなく、人の営みを通じても伝えられてきたのだろう。

 宗冏家元は「茶会に際して黒書院を初めてゆっくり拝見し、数寄屋御成(おなり)を意識した構成だと確信した」と言う。

 数寄屋御成は将軍や藩主らを自邸に招く御成に茶事を組み込んだ行事。茶人古田織部に指南された宗箇は浅野家に従って広島に入国し、広島城内でそれが可能な上屋敷を築く。明治の世に跡地は陸軍の練兵場に変貌を遂げたが、史料に基づく上屋敷のほぼ全容は、現在の茶寮・上田流和風堂(広島市西区古江東町)で今世紀に入って再現された。

 それは「鎖の間」と呼ばれる広間をはじめ、数寄屋御成を強く意識している。宗冏家元の黒書院に対する直感は、30年にわたって手掛けた再現事業に根ざすものだろう。「確かなものを再現すれば歴史の空白は埋められる」という確信もそこにあった。

 西洋文明を取り入れ、固有の文化や宗教をとかくなおざりにした日本の近代。伝統文化にとって、存亡をかけた時代だった。加えて太平洋戦争では大都市への空襲、広島では原爆投下という苦難。上田流にとっても同じだった。

 それでも、茶の湯文化の根が枯れなかったのはなぜか。一つには、明治の廃藩置県で旧藩主が上京を命じられても家老上田家は広島にとどまり、「茶事預かり」の家も残ったことがある。また、昭和初期から和風堂が居を構える古江の地は原爆による壊滅的被害を免れ、古文書が失われなかったこともあろう。そこに人の意思が加わったのだ。

 江戸期文化・文政年間の広島では、武家も町民も一緒に文芸を楽しむ土壌が育まれたという。それは戦前昭和まで町衆文化として続いた。

<夜咄の燭をうつせし天目碗>

 広島市出身の俳人高梨曠子(ひろこ)さんがこの夏出した句集「春蘭」には、昭和初期の町の風情が映し出される。父母が書画や茶の湯をたしなみ、路地奥に能楽師が住み、裏には琵琶の先生も-。15歳で被爆し、避けてきた広島だが、今は懐かしい宝物なのだろう。

 2年後、広島は被爆70年を迎え、文化事業も数多く企画されよう。戦前の能楽事情を知る「ひろしま見所(けんしょ)の会」主宰の亀川幸郎さん(70)は「祈りの能楽祭」実現へ動いている。語られることの少なかった「原爆以前」の文化を探る機会になるかもしれない。

 自らも被爆し、上田流の戦後を身をもって知る上田宗源先代家元の遺稿集に、鎌倉の歌人藤原家隆の一首がある。

<花をのみまつらん人に山里の雪間の草の春を見せばや>

 立派な花を咲かせるには強い根を張らねばならない、花だけ待つ人にはなるまい、と宗源氏は説く。70年近く培った文化の「根」が試される。

(2013年10月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ