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社説・コラム

『私の師』 医療法人グランドタワーメディカルコート理事長 伊藤千賀子さん

疫学研究に導いた「宿題」

 26歳で糖尿病の疫学研究を始め、半世紀近く続けている。こつこつ積み重ねてきた研究成果は、病気の予防や早期発見につながる取り組みとして評価され、名誉な賞をいくつもいただいた。この糖尿病研究のきっかけをつくってくださったのが、和田直広島大名誉教授(2000年に92歳で死去)だった。

 「被爆者の糖尿病研究をやってはどうかな」。広島大医学部第二内科に入局してまもなく。今後何をすればいいか分からなかったとき、和田先生が声を掛けてくださった。この一言が、私の医師人生の方向性を決めた。

 当時、先生は生活習慣病の予防対策に積極的に取り組んでおられた。糖尿病は食の欧米化や運動不足が要因となって起こる生活習慣病の一つ。過去10年で国内に200万人増えたといわれている。今思えば、素晴らしい先見性をお持ちだった。

 神様のような存在の先生から頂いた宿題。しっかりやらなくてはと私は意気込んだ。早速、広島原爆被爆者健康管理所(現在の広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センター)に行き、10万枚の被爆者のカルテと向き合い始める。

 3カ月かけて、尿検査で尿糖が出た頻度を正の字で書き出した。すると分かった。女性より男性の方が尿糖の出る比率が3、4倍も高いということが。

 その後も病気が発症する経過や、予防についての研究を続けた。根気よくデータを蓄積していくと見事に花開く。疫学研究の面白さを実感した。気が付けば65歳までの40年間、私は同センターで研究を進めながら被爆者の健診に携わっていた。

 もう一人。今の私があるのは母の門田敦子(2002年に97歳で死去)のおかげだ。私は3人きょうだいの末っ子。兄と姉は早くに家を出て、父は私が大学生のころ亡くなった。母とは戦時中私が疎開していた2年間を除き、亡くなるまでずっと一緒に暮らした。

 明治生まれの母は、無口だが筋の通った強い女性だった。戦後、呉市の自宅が全焼し仮家に住んだときは畑にサツマイモやナスを植えて子ども3人を育ててくれた。「勉強しなさい」と言われたことはない。ただ、毎朝5時には身支度を整えて、私の朝食や弁当を用意し、学校に送り出してくれた。

 医師になってからも母に支えられた。若い頃は仕事に必死で、私は子ども2人の参観日には一度も行けなかった。夫も医師で忙しく、育児はほとんど母が引き受けてくれた。その支援があったからこそ、私は医師を続けられた。

 目の前の事に手を抜かず、真っすぐ取り組む姿勢を学んだ。母は、いつまでも私の心のよりどころ。今も困ったことがあると仏壇に手を合わせて話しかける。「お母さん、守ってね」と。(聞き手は標葉知美)

いとう・ちかこ
 1939年呉市生まれ。呉市立五番町小、広島大付属中・高を経て58年広島大医学部入学。64年同学部を卒業。65年から広島大医学部第二内科で糖尿病の疫学研究を始める。広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センター名誉所長などを経て2012年から現職。日本糖尿病学会名誉会員。05年に日本糖尿病学会賞(ハーゲドーン賞)、08年に日本女医会賞(吉岡弥生賞)を受賞。呉市在住。

(2013年10月28日朝刊掲載)

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