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社説・コラム

『私の師』 脚本家・伊藤隆弘さん

「被爆銀輪」の劇 迷い払拭

 舟入高(広島市中区)の演劇部で「ヒロシマ」をテーマに創作脚本を書くようになって15年目の夏。ミュージカルに挑戦しようとしたんですよ。でも、心のどこかで迷いが拭いきれない。軽率ではないか、被爆者への冒涜(ぼうとく)にならないか―。これを払拭(ふっしょく)してくれたのが、原爆資料館(同)の元館長で被爆者の故高橋昭博さん(2011年11月死去)だった。

 題材は被爆自転車。1984年の8月6日を目前に控えたころ、原爆資料館に被爆自転車が眠っている、という記事が新聞に出ていた。見に行くと、地下の倉庫に梱包(こんぽう)してひっそりと置かれていた。

 戦時中、自転車は一家に1台の貴重品だった。それが、ちょうど80年代は市内に自転車があふれ、粗末に扱われるようになっていたころでね。「この被爆自転車にスポットライトを当ててやろう」となったんですよ。

 楽しくしながら、いかにヒロシマを伝えるか。ミュージカルがいいだろう、と考えた。とはいえ、ちゃかすわけじゃないけど、じゃかじゃか騒がしくしてもどうかな、と悩んだ。そこで高橋さんに相談した。

 高橋さんは即座に「それはいいんじゃないか」と言ってくれた。「今の高校生がヒロシマをどう捉えるかが大切。若い人が理解するなら、追体験は大いに結構」と。それで勇気100倍になった。その後、ヒロシマを描いていないようにしつつ、最後はヒロシマにたどり着くように、いろんな角度で書けるようになった。

 おかげで、この作品「銀輪(チャリンコ)のうた」は、全国高校演劇コンクールの中国地区大会で2位になった。さらに、審査員の一人が推薦してくれて、富山で開かれた国際高校演劇祭に出場した。分かってもらえるかどうか、と思ったが、海外の子どもたちも良かった、と言ってくれた。劇が言葉を超えた。

 高橋さんとは、これを機に親交が深まり、歌や芝居で平和を訴えるイベント「広島市民平和の集い」(広島平和文化センター主催)に声を掛けてもらうようになった。舟入高の演劇部が出演しただけでなく、「夕映え」という二人芝居の脚本を書いたこともある。

 僕は演劇を通して、ヒロシマと向き合ってきた。被爆者ではないが、子どもの時、岡山空襲で家をなくし、焼夷(しょうい)弾の中を母親と逃げた戦争体験が基になっている。今の子どもたちに、僕らと同じ思いをさせたくない。

 今は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の朗読ボランティアのほか、舟入高演劇部の卒業生による劇団「F」に脚本を書いている。これまでの創作脚本は40本を超えた。被爆70年には、集団疎開、原爆孤児の問題を書いてみたい。そして、死ぬまでヒロシマを考えていきたい。(聞き手は二井理江)

いとう・たかひろ
 1938年、岡山市中区生まれ。45年6月、三勲国民学校1年の時に岡山空襲に遭う。戦後、父の転勤で津山市や周南市などで暮らした。出雲一中(出雲市)、出雲高(同)を経て広島大教育学部国語科卒業後、61年4月、二葉中(広島市東区)に赴任。63年4月、舟入高に移り、64年4月から演劇部顧問。96年4月から99年3月まで校長を務め、退職した。同年11月、谷本清平和賞を受賞。広島市佐伯区在住。75歳。

(2013年11月25日朝刊掲載)

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