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社説・コラム

『言』 ビキニ水爆実験60年 第五福竜丸展示館・安田和也主任学芸員

なお続く核被害伝えたい

 60年前の3月1日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が行った水爆実験により、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が被曝(ひばく)した。戦後もやまない核の被害を、この事件を通じてどう見つめ直すべきか。船体を保存する東京都立第五福竜丸展示館の安田和也主任学芸員(61)に聞いた。(聞き手は論説委員・金崎由美、写真・増田智彦)

 ―展示館を以前訪れた際、この木造船でよくぞ赤道近海まで行ったものだと驚きました。
 建造された1947年当時、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の周りに漁業規制を設け、近海向けの木造漁船以外の建造を制限していました。52年に日本が独立を回復すると、第五福竜丸をはじめ多くが遠洋マグロ漁に転じました。約800隻あったとされますが、唯一現存する木造船でもあります。

 ―第五福竜丸の被災を知った国民の間に走った衝撃は、どれほどだったでしょう。
 無線長だった久保山愛吉さんが死の灰(放射性降下物)を浴びた半年後に亡くなり、急性障害を乗り切った乗組員も苦難を強いられました。ほかの漁船が水揚げしたマグロの汚染も判明し、国民の不安は頂点に達したのです。原水爆実験の禁止を求める署名が年末までに2千万人分も集まり、広島での署名分は国連に届けられました。この活動が原水爆禁止運動につながっていきました。核兵器廃絶を訴える世論の原点ともいえます。

 ―第五福竜丸事件は今に続く問題だといえますね。
 第五福竜丸に限定した言い方は正確といえません。この年だけでも米国の水爆実験は計6回に上ります。近くのロンゲラップ島の住民は米軍から人体実験同様に扱われ、大量に被曝させられました。多くの日本漁船が被害を受け、海洋汚染も深刻でした。私たちは「ビキニ事件」などと呼んでいます。

 ―60年前の事実とともに、船の保存に至る経緯も語り継ぐべき歴史ですね。
 広島とのつながりをぜひ知ってもらいたい。東京水産大(当時)の練習船となった後に廃船にされ、67年に東京湾岸のごみの島、夢の島に放置されました。現状が報道されると、「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」という機運が盛り上がったのです。ちょうど広島市民の募金を基に原爆ドームの保存工事が行われた時期でした。熱意が都を動かし、10年越しで施設が建設されました。

 ―実物展示とともに、体験者の証言についてはどんな取り組みをしていますか。
 元乗組員の大石又七さんが証言に力を尽くしてきました。しかし、いつまでも続けることはできないという厳しい現実もあります。被曝とはどれだけの苦しみをもたらすか。核兵器はいかに非人道的であり許されないか。大石さんが命を削ってまで伝えてきた思いを引き継いでいくため、さらに模索していかなければなりません。

 ―具体的には。
 かつて保存運動に加わった地元の退職教員たちにボランティアになってもらい、展示解説に力を入れています。研究者と市民を結ぶ試みも進めたい。連続講座の開催などを通じて、学会発表にとどまっている研究成果を市民とも共有するのです。

 ―どのような見学者を多く受け入れていますか。
 市民の団体はもちろん、年間に約500の小中高校が訪れています。東京ディズニーリゾートが近いため、合わせて修学旅行のコースに組み込む学校もあります。熱心に学ぶ子どもたちは宝物です。ただ年間13万~14万人で推移していた入館者数が最近は10万人台にとどまっています。何とか平和学習の受け入れを増やしたいと考えています。

 ―被曝について考えるなら、原発事故は大きな転機といえます。入館者の反応に変化は。
 放射能の健康影響に関する質問が多くあります。都立の小さな施設ですから展示規模に限界はありますが、核問題への関心を広げていく「入り口」としての役割を果たしたい。広島・長崎と現在の間には、核の被害と人々の苦しみが横たわっています。第五福竜丸を通して、その歴史に一人でも多くの人が向き合うことを願っています。

やすだ・かずや
 那覇市生まれ。76年法政大社会学部卒。日本原水協事務局を経て00年から第五福竜丸平和協会の事務局長。同時に協会が運営する第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島)の学芸員に。中央大と恵泉女学園大で非常勤講師も務める。共著に「水爆ブラボー」など。

(2014年2月5日朝刊掲載)

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