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社説・コラム

『論』 「防空法」があった時代 なぜ国民に義務付けたか

■論説副主幹・佐田尾信作

 「生きて虜囚の辱めを受けず」という古い言葉がある。日米開戦前夜、陸軍大臣だった東条英機が発した「戦陣訓」の一節だ。軍人は捕虜となるより死を選べ、と。

 ことし8月で70年の節目を迎える「カウラ事件」を思う。オーストラリアの小さな丘の町で起きた日本兵捕虜の脱走暴動。銃撃などで231人が死亡し、決行に先立って自決した兵もいたほか、豪軍の警備兵にも犠牲者が出た。

 慰霊祭が広島市東区の饒津(にぎつ)神社で営まれていたこともあって、ここ10年余り、事件を知る人たちの証言を聞いてきた。その一人で島根県津和野町出身の会社社長、故浅田四郎さんは「脱走に目的はないんじゃけ。ただ、死ぬために行動したんよの」と語っていた。

 洋食ナイフや野球バットで機関銃に立ち向かう―。自殺行為であることに間違いない。事件を戦陣訓だけでは片付けられないものの、彼らの内面を強く呪縛していたことが証言からうかがえる。

 戦場だけではなく、「銃後」にも戦陣訓はあったとはいえないだろうか。1937(昭和12)年に制定され、日米開戦に対応して2度改正された旧防空法である。憲法学者水島朝穂さんと弁護士大前治さんの共著「検証防空法」(法律文化社)を読んで思った。

 防空とは敵機発見のための監視や空襲警報発令など、都市防衛の備えである。だが旧防空法は制定当初から軍や警察などより、国民にそれを義務付けていた。原爆が投下された広島では、警防団員、防空監視員、医師、看護婦らは市外への疎開を禁じられて防空や救護に従事することを強制されていた、と戦後の公文書にある。

 有事法制の研究者でもある水島さんは核シェルターの議論がきっかけで、30年にわたって防空関係の資料を収集。2011年には国の賠償責任を求める大阪空襲訴訟の原告の求めで法廷に立った。

 空襲に備えて推奨された「火たたき」の図解などを映写し、「焼夷(しょうい)弾は手で持って捨てろ」という勇ましい新聞記事を示すと傍聴席がどよめく。東京大空襲の母子の遺体の写真に「乳飲み子と母親こそ早く避難させるべきだった」と付言した時は静まり返った。まさに同書の副題でもある「空襲下で禁じられた避難」だった。

 「二つとや/ふりまく砂に濡(ぬ)れむしろ/火たたきスコップそろえましょう」

 75年に中国新聞社が出した「呉空襲記」によると、軍港都市呉では「防空数え歌」が作られた。焼夷弾や毒ガスなどへの備えを列挙し、「九つとや/ここまで出来(でき)れば大丈夫/落ち着きはらって待機せよ」「十とや/とうとう敵は寄りつかず/雲とかすみと逃げ失(う)せる」と締めくくる。現実には度重なる空襲で、軍施設に加えて多数の市民の命と財産が失われた。

 だが、この旧防空法が悪法だとしても、国会の正式な手続きを経て成立している。なぜだろうか。

 成立の翌年、言論人の桐生悠々は総選挙を控えて「国民の立憲的訓練」を説いた。彼は当時、自らの論説「関東防空大演習を嗤(わら)う」が反軍的だと攻撃され、主筆を務めていた地方紙を追われた身。防空訓練より先ではないかと、子どもたちが学校で自治や選挙を学ぶことをこの時代に提唱したのは、今にしてみれば卓見だろう。

 「立憲」をキーワードに、現実の政治に目を転じてみたい。

 集団的自衛権行使容認をめぐる憲法解釈について、「内閣法制局長官ではなく私が責任を持っている」とした安倍晋三首相の国会答弁。立憲主義の否定だとして、先日から物議を醸している。

 現憲法は国民の権利や自由のために国家権力を縛る、という立憲主義に基づく。本来、憲法を尊重すべきはどちらなのか。この立憲主義が侵されない限り、いかなる政権下でも防空法のような法律が再び定められることはないと考えるのが常識だろう。

 だが、特定秘密保護法のように国民に制約を課す法律が現実になると、少し身構えなければなるまい。戦時下であるかどうかにかかわらず、戦前昭和の立法の歴史に関心を持ち、いま一度、洗い直す必要はあるのかもしれない。

(2014年2月20日朝刊掲載)

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