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社説・コラム

『潮流』 「物語」への違和感

■報道部長 高本孝

 「アイドルの握手券にCDが付いてくる時代」。シンガー・ソングライター山下達郎氏の言葉をあるインタビュー記事で読んで、思わず膝を打った。和製ポップスの大家が発した、昨今の音楽業界への寸鉄と受け止めた。

 広島市佐伯区出身の「音楽家」佐村河内(さむらごうち)守氏の代作問題になぞらえてみる。「聴覚を失った被爆2世の人生への感動に、CDが付いてくる」とでもなろうか。

 作家の物語に、集団催眠のように引きずられる聞き手。佐村河内氏の一件では、そんな構図に焦点が当たった。売らんかなのアイドル界ならともかく、クラシック音楽で「天才」「大作」の乱造はしゃれにならない。

 確かに物語は魅力を放つ。佳境に入ったソチ五輪。メダルの有無や色にかかわらず、選手一人一人に人間ドラマがある。普段はなじみのない競技でも連夜、睡眠を削ってまで中継に見入る。「物語探し」と言っていい。

 だが、物語は時として違和感を伴う。7年前に佐村河内氏を取材した本紙記者が、14日付のこのページで自戒をつづった。「疑問や違和感は、きちんとただす。当たり前のことができていなかった」

 自宅の床に散らばった睡眠導入剤などに「自己演出」を感じ取りながらも、「苦難」に紡がれた楽曲への同調圧力に押し返された。私たちが大いに反省すべき点だ。

 自民党独り勝ちの永田町でも「大義」をまとった物語が幅を利かし、同調圧力を強めているようだ。「戦没者を弔う首相の靖国神社参拝は当然」「集団的自衛権の行使も特定秘密保護法も国を守るため不可欠」。論戦は結構だが、反論に「反日」のレッテルを貼るような空気は息苦しい。

 何であれ、違和感は声にしたほうがよさそうだ。良質の文化を育てるため。そして、自由にものが言える社会を守るために。

(2014年2月20日朝刊掲載)

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