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社説・コラム

今を読む 核とマーシャル諸島の60年

住民本位の帰還計画こそ

 マーシャル諸島共和国は1986年に米国から独立した太平洋の小さな島嶼(とうしょ)国だ。「真珠のネックレス」と称される標高2メートルほどのサンゴ島が連なった環礁で形成されている。約1500年前に大海原を越えて住み着いた人々の子孫は今や推定6万人近い。

 機上から眼下を眺めるたびに、小さく資源の乏しい環礁になぜ、と考える。外洋が荒れても環礁内の浅瀬のラグーンでは漁ができたのだろう。だからこそ、人はここをすみかとして選び取ったのだ。

 しかし環礁は核実験にとっても好都合だった。太平洋の真ん中なら爆発の残骸は深海に沈み、破壊力の正確な測定は難しかろう。が、水深数十メートルの環礁なら回収が可能で、爆発が環境に及ぼす影響を見ることが容易である。

 1946年から58年まで、米国は67回もの核実験を繰り返した。第五福竜丸が被ばくした54年のビキニ環礁のブラボー水爆実験では、実験場から210キロ東にあるロンゲラップ環礁の住民が死の灰にさらされて急性放射線障害を発症、3日後米軍に救出された。この時の地上空間線量は毎時10ミリシーベルトから23ミリシーベルトあったと米の公文書は示している。

 人々は3年後帰還したが、出産異常やがんなどの健康被害が多発した。その後公表された線量の高さから85年に再び避難し、故郷から210キロ南のメジャト島を中心に「仮の島」の生活を続けている。

 避難直後からロンゲラップ地方政府は帰還に向け、米政府に除染や居住地再建などの補償を求めて交渉を続けてきた。98年には「再定住計画」に着手し、既に除染、インフラ整備、個人家屋の建設が終わった。同時に地方政府は観光、養豚、真珠養殖などの産業を興した。昨年夏段階で作業員やその妻子(5人)を含め30人ほどが居住している。

 だが、当初予定された一斉帰還は実現していない。その理由として、健康面への影響を懸念するマーシャル諸島政府が小学校を建設していないことが挙げられる。さらに放射能汚染への不安、都市部や米への移住、避難島への愛着などによって帰還を選択しない人が半分はいるだろう。補償金への依存、環礁の民としてのアイデンティティーの喪失、被ばくの記憶の風化などととらえることもできよう。

 昨年、私は11年ぶりに避難島を訪れた。手つかずの土地は開墾され、タコノキやココヤシの林に変貌していた。以前はほとんど目にしなかったさまざまな保存食や魚の干物づくりが盛んに行われていた。人口は11年前の350人から150人に減ってはいたものの、保存食を避難島以外の人に分配することで、各地のロンゲラップゆかりの人々や避難島の近隣の島々とのつながりが生まれていた。

 そもそもマーシャル諸島には所有する土地だけに定住する生活様式がなく、数カ月から数年ごとに移動する。複数の環礁にまたがって築かれた関係性は個人やコミュニティーの困難を救う。だから初対面のあいさつも「どこに住んでいますか」ではなく「どこに寝ていますか」となる。

 帰還問題も、帰るのか帰らないのか二者択一を迫ることがマーシャル諸島の文化に合わないことが分かる。米内務省もロンゲラップ市長に「一斉帰還」を再三促してきたが、逆に現在の分散居住をいかに支えていくのか、という視点で考えてもいいはずだ。

 避難島で暮らす人々は「自分たちの船がほしい」と口々に訴える。船を持てば今の暮らしに満足して帰還が遅れるかもしれないが、居住地の間を行き来する新たな生活様式も生まれるだろう。普通の人々はもはや、米主導の再定住計画をありのまま受け止めることはあるまい。

 原発事故の被災地福島でも家族が離れて暮らすことを強いられている人々が多く、経済的負担も個人に重くのしかかっている。衣食住だけではなく「つながりを支える支援」も、長期にわたって行われるべきだろう。放射能被害の解決には予想をはるかに超える歳月が必要となる。3月1日で被災60年を迎えるマーシャル諸島も、いまだ問題解決の途上にあるのだから。

中京大社会科学研究所特任研究員・中原聖乃
 65年岩国市生まれ。専門は文化人類学、平和学。著書に「放射能難民から生活圏再生へ」「核時代のマーシャル諸島」など。名古屋市在住。

(2014年2月25日朝刊掲載)

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