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社説・コラム

『論』 3・11から3年 「パンドラの箱」閉じたい

■論説主幹・江種則貴

 「3・11」が近づくたび、高校時代を思い出す。かれこれ40年近く前、卒業式の直前だったと記憶する。原子力発電の将来について同級生と議論になった。

 普段おとなしい1人が、いつになく雄弁だった。「いずれ石油は枯渇する。経済発展は原子力に頼るしかない。放射性物質は技術によって封じ込めできる」。科学に未来を託す強い口ぶりは、国立大の理系に進学するという気負いもあったからだろう。

 受験浪人を余儀なくされたこちらは気後れした。「原発技術をパンドラの箱に戻すことはできないものか」とつぶやくと、彼は「どだい無理だね」と笑った。

 資源小国が技術立国として経済成長を果たす際、原子の火が当時の無二の選択肢と考えられたのは確かだろう。時間は決して後戻りしないかのように、原発は列島各地に少しずつ増えていった。あの「3・11」までは。

 同級生との会話から15年後。記者として原爆問題を取材するようになり、再び「パンドラの箱」論に直面した。まさに、ここ広島の上空で、核兵器を詰めた箱のふたは開かれたのだから。

 その廃絶を紙面で主張すると反論されることがある。「もはや核兵器という技術を人類の記憶から消し去ることは不可能だ。もし地球上から全廃される日が訪れたとしても、その翌日から誰かが開発に手を染めるに違いない」と。

 だからこそ私たちは、「人類は核と共存できない」というフレーズをしばしば記事にもぐりこませる。核兵器の非人道性を容認できるはずはなく、その全廃こそが本来、人類の歩むべき道にほかならない。「8・6」という箱を開けた愚かさを自省するなら、科学はその技術を再び箱にしまう方法を考えるべきではないか―。

 ただ私たちは、同様に放射性物質を拡散する危険性をはらむ原発に対しては、核兵器に対するほどの強い物言いはしてこなかった。私たちの暮らしを支える重要な電源であることは、紛れもない生活実感でもあった。

 そこに「3・11」である。福島の事故は「人類は核と共存できない」という警告をあらためてこの国に突きつけた。人々を古里から追い払い、コミュニティーを消失させ、汚染水という形で今も内外に不安を広げる放射能の脅威は、核兵器と何ら変わらない。

 もう一つ明かすと、被爆地から言いにくくなったことがある。被災者に「広島の経験からすれば、心配しなくても大丈夫です」と言ってあげたくなるときがある。ただそれは、被曝(ひばく)の影響がほとんどないはずなのに過剰に不安がる人に限られる。紙面では「低線量被曝の健康影響はいまだ解明されていない」と書くしかない。それが逆に不安を増長させ、風評被害を招くかもしれないと恐れつつ…。

 3年前、この国は「脱原発」へとかじを切ったはずだ。今後も続く廃炉と膨大な除染という人類未踏の作業は、パンドラの箱へと戻す技術を教えてくれるかもしれない。あるいは放射線を浴びた細胞を再生する新技術はないものか。それらは、地球を汚し、人々に不安を広げたこの国の、せめてもの罪滅ぼしとなろう。

 そうした期待はしかし、政府がまとめた新たなエネルギー基本計画案で、一気に冷や水を浴びせられたように思う。

 そこでは原発を「重要なベースロード電源」と位置づけた上で再稼働を明記した。さらに将来のエネルギーの「ベストミックス」はあいまいで、原発の新増設も視野に入れていると読める。しかも核兵器に転用可能な余剰プルトニウムを減らせる保証は全くないのに、核燃料サイクルの大きな見直しもない。

 政府は、3年と少し前へと時計の針を戻したいのだろうか。

 パンドラの箱を開けなかったことにするのは、どだい無理だ。とはいえ、そうと分かっていても、あらがう気概を見せるしかない場面がある。政治家も科学者も、市民も、私たちマスコミもだ。「8・6」と「3・11」に何が起きたのか。後世に伝える営みを、決しておろそかにはできない。

(2014年3月6日朝刊掲載)

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