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社説・コラム

今を読む 残すべき移民の体験

多文化共生の道しるべに

 「また1人読者が減った」。私がブラジルで勤務する邦字紙「ニッケイ新聞」(本社・サンパウロ市)で訃報記事を扱うたび、亡くなった方には大変不謹慎ながらも、そう思ってしまう。

 続けて、一つの歴史が消えたとも痛感する。日本の真反対のブラジルで営まれてきた移住体験という「歴史」だ。

 ブラジルには現在、広島市の人口をはるかに超える約150万人の日系人がいる。世界最大の日系社会であり、ブラジルは世界有数の親日国でもある。

 1世の移住は1908年、781人(うち広島県42人)が乗り込んだ笠戸丸から始まった。戦前・戦後に移住したのは24万人余。県別でいうと広島は5位だった。現在日本人は約6万人と推測される。

 長く住んでいるとはいえ、情報源を日本語新聞に頼らざるを得ない人が多い。購読者でないにしても多くの人が新聞を手に取ってくれるのはありがたいことだが、読者層は高齢だ。

 戦後移住のピークだった1960年代初めに20歳前後だったとしても、それから半世紀が経過した。読者減が懸念されている世界の紙メディアの近未来といえる。

 2世読者のため、漢字にルビを振るなどの配慮もしているが、新たな読者層の開拓はままならない。自虐的にいえば多少の「延命措置」といったところだろうか。

 紙面では日本やブラジルのニュース、読者文芸などに加え、特に力を入れているのが日系社会面で扱う移民の来歴である。

 何故移住したのか、何を縁(よすが)に生きてきたか、大事に守ってきたものは―。生涯を懸けて体得してきた日本人論をあちこちで拝聴する。

 子や孫はすでにポルトガル語が主体になり、日頃コミュニケーションに隔靴搔痒の思いがあるのか、ひょっこり現れたわれわれ〝日本の日本人〟に思いの丈を打ち明けてくれる。「初めて(体験や思いを)話した」と言われることも多く、記者冥利(みょうり)に尽きる。

 このような環境では時間軸が違う。「今度話を聞こうと思っていたのに」「先日まで元気だったのに」と、思わぬ訃報に接して肩を落とすこともしばしば。まさに移民取材は一期一会なのだ。

 自分史や日記に代わり、新聞はその体験や民族の知恵を記す場となる。取材は自然と聞き書き(オーラルヒストリー)の取り組みにつながっていく。そうこうしているうちに、「記録」の重要性を強く感じるようになった。

 2008年に迎えたブラジル日本移民100周年は、国を挙げての慶祝モードだった。日本文化への関心も高まり、農業を中心に貢献した日本移民が顕彰された。日本人の歴史はブラジルの一部であり、その特性こそが認められている―。祖父母世代の奮闘がこの地で一定に浸透した結果、それ以降は若い世代の心境に変化が起きているような気がする。

 日本精神を固持しようとしたのが1世だったとすれば、ブラジル社会に同化しようとアイデンティティーに悩んだのが2世であろう。そして現在の主流といえる3世らは、ごく自然に家族の来し方に向き合うようになっている。「なぜ自分はブラジルにいるのか?」と。

 次世代を含め、その疑問にこたえるのも日本語新聞の使命と捉え、記事をポルトガル語に翻訳、書籍化する事業を進めている。

 移民世代の体験を知ることが、ひいては日系ブラジル人としての誇りにつながると信じたい。そして、ブラジル社会にも知ってもらいたい。日本移民の足跡は、すなわち移民国家ブラジル建設の歴史でもあるのだ。

 少子化の著しい日本では将来、海外からの労働力に頼らざるを得ないといわれ、東京五輪の決定で、それは目前のように思える。

 日本人が異文化のなかでどう適応してきたか。現在進行中の〝民族的実験〟の歴史をひもとくことが、今後日本の多文化共生への道しるべとなるのでは―そんな思いもある。

ニッケイ新聞専務・堀江剛史
 75年広島市南区生まれ。中南米各国を歩き、02年からニッケイ新聞記者。08年「日伯友好の礎 大武和三郎」報道で海外日系新聞放送協会大賞を受けた。13年から現職。ブラジル広島県人会理事。

(2014年3月18日朝刊掲載)

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