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社説・コラム

私の学び 米テキサス大MDアンダーソンがんセンター教授 リツコ・コマキさん 

禎子さんの死 胸に研究

 幟町小(広島市中区)で同級生だった佐々木禎子さん(1955年、12歳で死去)の死が、私を放射線専門医の道へと導いた。なぜ罪もない子どもが命を落とさなければならなかったのか。放射線を浴びて、白血病に侵され亡くなる人と、生き続けた人がいたのはなぜか―。その疑問が私の原点にある。

 小学4年生のとき、父の転勤で下松市から広島市に移った。禎子さんとはクラスは別。足の速い元気な女の子で、運動会のリレーで競って負けたことがある。禎子さんが白血病で入院したときは、友人と見舞いに行った。鶴を懸命に折っていた姿が、いまでも心に残っている。

 亡くなったと聞いたとき、とても悲しかった。友達の死を無駄にしたくない。このとき、白血病の研究者か医師になりたいと思った。

 禎子さんをモデルとした原爆の子の像(中区)の建立にも、幟町中生徒会の生徒会長として関わった。資金を集める街頭募金の先頭に立った。像には「今後、子どもが放射線の被害を受けないように」との願いが込められている。あの頃、像が世界的に有名になり、平和の象徴になるとは思いもしなかった。修学旅行生たちが像の前で合唱している姿を見ると感激する。

 広島大医学部に進み、夏休みにはABCC(原爆傷害調査委員会、現放射線影響研究所)で被爆者の定期検査を手伝った。卒業後はABCCの職員になった。当時は大学紛争の真っただ中。大学に残って研究を続けることはできなかった。1年後、放射線をもっと学びたいとの一心で、ABCCの仲介で、米ウィスコンシン州の病院に移った。そこで、がん治療に放射線が有効なことを知った。

 1988年、MDアンダーソンがんセンターに移り、患部を切らず、放射線でがん細胞を死滅させる研究に没頭した。現在は、副作用がさらに少ない陽子線治療の研究を進めている。センターのロビーに折り鶴のオブジェを飾った。離れた地にいても、ヒロシマへの思いは常にある。

 放射線は多くの人の命を奪ったが、使い方を変えれば命を救うこともできる。禎子さんは最後まで「回復したい」と願っていた。だから、禎子さんと同じように病と闘う子どもを救い続けることが、私の夢だ。(聞き手は永里真弓)

リツコ・コマキ
 兵庫県尼崎市出身。1969年に広島大医学部卒。ABCC(現放射線影響研究所)での勤務を経て、白血病の専門医を志して70年に渡米した。ウィスコンシン医科大腫瘍内科学の研修医となり、放射線治療医として同大で勤務。コロンビア大助教授も務めた。98年から現職。

(2014年3月24日朝刊掲載)

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