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社説・コラム

今を読む 佐村河内氏、残る問題

被爆地は音楽に何を託す

 被爆2世の佐村河内(さむらごうち)守氏が作曲したとされる「交響曲第1番 HIROSHIMA」。CDで最初に聴いたのはおととしの秋だった。19世紀後半の後期ロマン派にタイムスリップしたような、祈りとも癒やしとも区別のつかない音楽体験をした記憶がある。その年の末から翌年にかけて、メディアで話題になることが多くなった。

 つえを突いて東北の被災地を歩くその姿―。30歳で聴覚を失い始める逆境の中、ハイリゲンシュタット(現在のウィーンの一部地域)の荒天の田舎道を逍遥(しょうよう)するベートーベンに重ね合わせた音楽ファンは少なくないであろう。

 しかしながら私は、「現代のベートーベン」と称された佐村河内氏に何か釈然としないものも感じていた。かの楽聖には、32のピアノソナタや九つの交響曲が発する「苦悩を乗り越えて歓喜へ」という悲壮な決意がある。それとは本質的に異なる世俗的なものを、直感したからだ。

 やがて、そのことが脳裏から消え去ろうとしていたことしの2月、ゴーストライター問題は突如露見した。

 長年家電の業界に関わった筆者には、ゴーストライターに重ねてODMという用語が浮かぶ。有名ブランドが自らの企画責任のもと、他メーカーに設計・製造を委託して、自分のブランドを付けて販売する手法である。

 オペラなどの総合芸術では作業分担を伴うプロジェクト方式が習わしだ。「HIROSHIMA」あるいはゴーストライター新垣隆氏が当初想定した「現代典礼」のほか20曲近いとされる作品も、企画者と作曲家による共同作業という点で似ている。役割分担を明言していれば否定すべきものではなかったかもしれない。

 全て佐村河内氏一人の仕事だと偶像化したところに欺瞞(ぎまん)が生じ、多くの人々を欺いたことがまず、問題である。

 誤報であってもニュースは瞬時に地球を駆け巡り、時代の寵児(ちょうじ)が生まれる。キャッチフレーズにすかさず飛びついたメディアの取材報道の在り方も問われるだろう。

 もう一つ、問われたのは、芸術作品の真価とは何か、という問題ではなかったか。

 37歳で自ら命を絶ったゴッホは、生涯に売れた絵は1枚だったといわれる。今日彼の絵が何十億円で取引されることを思うと、人が芸術の真価を見極める能力の危うさにがくぜんとする。海外を含めて多くのメディアで絶賛された「HIROSHIMA」は「被爆2世」「聴覚障害に苦しむ作曲家」といった言葉がその評価に作用したことは否めない。

 しかし、それ以前に、今回の顚末で一番の問題は、非核平和への願いを交響曲に託した多くの人の善意と信頼を裏切ったことだろう。

 芸術は時代の子どもである。現代社会が多様化する中、芸術という社会の代弁者は、時として複雑化した現代文明を象徴するがごとく、鋭いとげでわれわれの精神に迫ってくることがある。

 戦後間もなく平和記念公園に建てられた広島市公会堂。巨匠たちが相次いで訪れ、奇跡の音楽で満たした。筆者の少年時代の忘れえぬ思い出として心に刻まれている。

 カラヤンの「運命」も、オボーリンの「舟歌」も、リヒターハーザーの「悲愴(ひそう)」もそうだ。「鉄のカーテン」を破って西側に現れた伝説の人、リヒテルが奏でた「戦争ソナタ」は、公会堂のしじまの空間にくまなく鳴り響いた。

 芸術家が芸術家らしく、人間が人間らしく振る舞うことのできなかった時代を生き抜いた彼らだった。今になって思えば、それは音楽という共通言語を通じて、不幸な世界大戦を体験した巨匠たちと広島の聴衆が心通わせた平和の祈りであったといえよう。

 190年前、ベートーベンがウィーンで初演した第9交響曲の中でシラーの詩に寄せた歓喜の歌の一節、「御身の安らかなる翼のもとで全ての人類は兄弟となる」。「ヒロシマ」に託した世界の人々の思いとは、そのようなものではなかったか。

 災い転じて福となす―。いま一度、被爆地の使命を再確認しようではないか。

経営コンサルタント・岡村有人
 47年広島市生まれ。広島大大学院修了。日立製作所中央研究所などで映像・音響分野の技術開発に従事。音響機器メーカー・ボーズの副社長を経て独立。被爆2世としての著書に日英両語の「七つの川は銀河に届け」がある。東京都世田谷区在住。

(2014年3月25日朝刊掲載)

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