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社説・コラム

『潮流』 30年前の「ポスト原発」

■論説副主幹・佐田尾信作

 「花は相馬に実は伊達に」と歌う福島県民謡がある。江戸初期、この地の相馬氏は北の伊達氏、あるいは北西の上杉氏と藩境をめぐってもめていたが、幕府の裁定で治まった。「伊達」は上杉領の伊達郡も指す。相馬人の潔さを表す意味もあって、地元ではよく知られているらしい。

 自著の副題に「花は相馬に―」の一節を借りる歴史研究者岩本由輝さん(76)と会う機会があった。住まいは福島第1原発から50キロ圏内の相馬市。聞けば第1原発のお膝元、大熊町の町史の「電力」の章を執筆したという。30年近く前のことだが、最近にわかに学者やメディアから尋ねられる。

 「原発とは共存共栄―といった記述がないのに気付いて意外だった、というんですよ。でも、私の一存じゃなく、当時の町長に聞き取りして書いたんだな」

 読むと、確かに「意外」な印象はある。第1原発は1973年に放射能廃液漏れ事故を起こしたが、町は外部からの電話で初めて知った。町史は「東電のとった態度は地元をないがしろにし…」と手厳しい。

 さらに、原発の跡地が使用不能な廃虚になることに住民は不安を抱いている―とつづり、「ポスト原発」という言葉まで使っていた。当時の町長は廃炉を見据えていた節がある。

 町史は相馬市などに火電建設計画が相次ぐ現状にも触れ、「原発は時代遅れ」と指摘。70年の第1原発の営業運転開始から15年を経て「共存共栄」の空気は明らかに変化していた。

 「町史を入手できないかと聞かれるが、今は在庫の有無を知るすべさえありません」と岩本さん。大熊町は全町民と役場が町外に避難したままである。

 「花は相馬に―」の花は桜。震災3年の空撮映像がテレビで流れ、全住民が避難した街を早咲きの桜が彩っていた。その下で人が花めでる日はいつのことか。

(2014年3月29日朝刊掲載)

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