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社説・コラム

別れの記 豪州カウラ会会長 山田雅美さん

24日、94歳で死去

貫いた「死者への責務」

 ちょうど70年前になる。太平洋戦争末期の1944年、オーストラリア・カウラの捕虜収容所で日本兵が集団脱走を図り、銃撃などで200人以上の犠牲者を出した惨劇―カウラ事件。生き残った戦友たちとともに、慰霊と証言活動を続けてきた。

 元陸軍船舶工兵。39年、岡山工兵十連隊に入営し、南方戦線へ。戦死傷者・餓死者2万1千人を出したガダルカナル撤退作戦に従った。引き続きニューギニアへの輸送作戦途中、米機の猛攻に遭って海を漂流。一度は味方に救助されたが、捕虜になってカウラに収容される。

 慰霊祭や証言の会の折に過酷な体験を聞いた。生死の境を何度もくぐり、死ぬ苦しさと生きる意味を誰よりも知っていた。

 「漂流していた時は沈んで死のうと思ったが、苦しくてすぐ浮き上がりましたよ」。かつお節をポケットにねじ込んで飛び込み、かじって命をつないだ。

 カウラでは脱走に加わった。鉄条網を越えた時に銃撃されたが、持っていた野球バットに弾が当たり、伏した仲間の下敷きになって助かったという。

 入営後、韓国・釜山の禅寺でスタンプ帳に「無限の生命の海/無限の智慧(ちえ)の海/無限の愛の海」と墨書してもらい、極限状態で唱えていたという。「命を生かしてもらったことに何かの導きを感じる」と振り返っていた。

 捕虜収容所で偽名を名乗り、今もカウラの丘に人知れず眠る兵たちがいる。戦後、現地を訪ねた時、亡くなった2人の仲間の墓を見つけた。墓碑銘は偽名だったが、日本で縁者を捜し出し、伝えたという。「死者への責務」という、山田さんなりのけじめだったのだろう。

 戦後は郷里の鳥取県日南町生山で自動車整備業を営む。「地域では縁の下の力持ちの父でした」と遺族。「一度遊びにおいで」と誘われながら果たせなかったことが、今は悔やまれる。(佐田尾信作)

(2014年3月29日朝刊掲載)

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