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社説・コラム

四国五郎さんを悼む 池田正彦 

広島の魂 母子像に込め

 90歳が目前だった四国五郎さんの訃報が届いた。その優しい画風は広く市民に愛され、広島を代表する一つの顔でもあった。

 戦後の出発は詩人の峠三吉とともにあり、テーマには終始、郷土広島が座っていた。峠の「原爆詩集」初版(謄写印刷、1951年刊)の表紙・装丁は四国さんが手掛けた。被爆した人間がよろめきながら歩いている半抽象のシルエットが描かれている。

 一緒に絵を描くことを誓った弟は広島で被爆死した。シベリア抑留から復員してそれを知った四国さんは、戦争への怒りを肝に銘じた。峠の活動と結び付いたのは当然だったろう。

 寡黙で控えめな印象だが、実際はユーモアを愛する剛直な人だった。四国という珍しい名の由来を語る時は多弁だったし、過酷な抑留を耐え抜いたのも、ひょうひょうとした強さゆえという気がする。

 抑留時のエピソードを幾つか聞かせていただいた。軍隊というのは、絵描きに役者、職人、あらゆる人間がいて、不思議と何でも調達できたという。演芸会でどうしてもかつらが必要になり、馬のしっぽの毛を抜いて立派なのを作ったこと、弱った隣人のため、連携プレーで極寒のシベリアで見事なにぎりずしを提供したこと…。四国さん一流のペーソスが漂う。

 画業では、母子像を終生のモチーフとし、反戦・平和を題材とした作品を多く残した。「なつかしの廣嶋」「子どもの遊び」「広島の橋」など、庶民の生活に寄り添ったシリーズにも真骨頂を発揮した。加えて、絵本「おこりじぞう」をはじめとする挿絵や表紙絵、ポスター、詩作やエッセーなども、驚くべき質と量である。

 「母子像」という自作の詩にこんなくだりがある。

 「ぬりかさねる絵具が おもわぬマチエールをみせようと ぼくはそれを削りおとさねばならぬ したたるグラシが あやしい幻想を色どろうとも それを拭き去らねばならぬ」

 マチエールは絵肌、グラシは色を薄く溶いた油といった意味だ。運動仲間からの頼みに黙々と応え、自らを「挿絵画家」と任じ、誰にでも一目で分かる画風を誇りとした。私は99年、「四國五郎平和美術館」という2冊組みの画集を編んだのだが、四国さんの仕事をたどりながら、個人を超えた広島の戦後史そのものをたどるように感じられた。

 残念ながら、四国さんが残した絵画や資料の多くは、未整理のまま眠っている現状である。これらをひもとき、広島の財産として保存、公開して活用することは、私たちの使命ではなかろうか。

 峠から四国さんに贈られた「原爆詩集」には、「ただ一つの思想と 唯一つの情熱と-」の書き込みがあった。託された思いを胸に自分のポジションを守り抜いた四国さんを、忘れ去る広島であってはならない。(広島文学資料保全の会事務局長=広島市)

 四国五郎さんは3月30日死去。89歳。

(2014年4月3日朝刊掲載)

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