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原爆犠牲者を悼み、平和の実現を祈る 広島・世界平和記念聖堂 国内外 絶えぬ訪問客 信徒がボランティアガイド

■記者 岩崎秀史

 国の重要文化財である広島市中区幟町の世界平和記念聖堂で、カトリックの信徒たちが見学者を案内するボランティア活動を続けている。原爆による犠牲者を悼み、平和の実現を祈ろうと、世界各国から集まった浄財、寄贈品で半世紀前に建てられた聖堂の意味を語り伝える。

 高さ45メートルの塔が立ち、被爆から9年後の1954年8月6日に完成した聖堂は、厳かながら優美な空気にも包まれる。ガイドの桂寿宏さん(62)=広島市南区段原=が聖堂内で観光客に説明していた。「このパイプオルガンは同じ敗戦国のドイツ・ケルンから贈られ、当時で300万円もしたそうです」

 聖堂の建設を発願したのは、当時の幟町天主公教会で被爆した故フーゴー・ラサール神父。原爆犠牲者の鎮魂と人類の平和、友愛を願い、ローマ法王ピオ12世に建設構想を説いた。欧米などを行脚して被爆の惨状を語り、建設資金の協力を呼び掛けた。世界中から寄付金のほか、平和の鐘やステンドグラスなど装備品も贈られてきた。

 寄贈された装備品にはそれぞれメッセージが添えられている。ドイツ・デュッセルドルフからの正面扉には「平和への門は隣人愛なり」と刻まれる。桂さんは殊にこの言葉を強調し「どう感じますか。覚えていてね」と観光客に語った。塔の屋上から市内の展望までガイドし、1時間余りが過ぎた。

 桂さんは、聖堂であえて平和への願いを声高に叫ばないよう心掛けている。「小さな所から積み重ねないと平和は築けない。ここを訪れた人が平和を考えるきっかけになればいい」と思う。

 兵庫県西宮市から観光で訪れた岩崎一成さん(25)は、聖堂の存在すら知らなかった。偶然に立ち寄ってガイドを受け、「敗戦後の混乱した時期に、世界からこれだけの寄付、寄贈で建てられたとは。感動し、うれしい気持ちになった」と話した。

 信徒がガイドを始めたのは99年。「聖堂の中を見学していいのか」「教会は敷居が高くて入りづらい」という声を聞いたためだ。今は12人が手分けし、午前10時から午後4時まで案内している。

 聖堂には修学旅行の児童・生徒、国内外の巡礼者や建設関係者の見学も絶えない。団体客だけで年間に3500-4000人が訪れ、2006年に国重文に指定されてから訪問する人はさらに増えているという。

 ガイド代表の藤田博美さん(71)=廿日市市前空=は「聖堂はイデオロギー、宗教、民族を超えて建てられた。世界中の思いを伝えたい」と話す。戸井美和子さん(64)=西区己斐西町=も「ガイドを始めて聖堂の良さに気づいた。平和を願う全世界の息づかいが表れている」と言う。01年の芸予地震の後、案内した学生から「被害はなかったですか」と手紙が寄せられるなどの反応から、ヒロシマの心を共有してもらえるのを実感する。

 カトリック広島司教区の肥塚神父は「原爆ドームが人間は恐ろしいことをしてしまうという負の遺産なら、世界平和記念聖堂は二度と戦争をしてはいけないとポジティブに発信する建物」と強調。「ラサール神父の精神を伝えてもらい、すばらしい」と、全国的にも珍しい信徒のガイドに感謝している。

フーゴー・ラサール神父
1898年ドイツ生まれ。1929年、イエズス会から派遣されて来日し、39年から広島で布教を始めた。48年、日本国籍を得て愛宮真備(えのみや・まきび)と名乗った。68年、広島市の名誉市民になり、90年、ドイツで91歳で死去。

世界平和記念聖堂
日本を代表する近代建築家、村野藤吾(1891―1984年)が設計し、1950年に着工。朝鮮戦争による物価の高騰や建設資金の調達のため、完成には丸4年を費やした。建設費は当時で約1億円。現在はカトリック広島司教区、幟町教会の聖堂として使われている。被爆都市での先駆的な戦後復興建築物として2006年7月、国重文に指定された。

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