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連載・特集

「生き地獄にシャッターが切れず…」

■元中国新聞写真部員 松重美人

 8月6日真夜中、空襲を告げるサイレンに飛び起きました。昼夜の別なく、たび重なるB29の来襲に心身ともに疲れ、死んでもいい、このまま寝ていたい、そう思うこともしばしばありました。だが、不気味なサイレンの吹鳴は身の危険に恐怖をかきたてました。当時、中国新聞社カメラマンで、空襲警報時、広島師団司令部報道部へ転属して報道の任に当たることになっていました。いつもの通り無灯火の自転車を飛ばし、司令部へ向かいましたが、午前2時すぎ警報は解除になりました。私は報道部の板張りの長椅子で仮眠。目が覚めたときは雲一つない紺碧の空に太陽がぎらぎらと輝き、戦争中とは考えられない、平和な装いの8月6日の朝でした。だがその1時間後、広島全市を灰燼に帰し、数十万の生命を奪う原爆がわれわれの頭上に落ちてくることを誰も知りませんでした。

 新聞社へ直に出勤するのには時間が早く、司令部から4キロメートル、爆心地からは2.7キロメートルの自宅、市の南方の翠町へ帰りました。そのことが私の現在への命脈をつなぐことになったのです。それは新聞社も司令部も爆心から1キロメートル前後であるからです。朝飯を済まし、汗だくになった下着を物竿にかけていたのを取りに立ちかけました。そのとき、パチパチと火花の散る強烈な音とともに、大量のマグネシウムが目の前で発火したかと思う青白い閃光が部屋全体に覆いかぶさりました。全く何も見えません。間髪を入れず、上半身裸の体に数百体の針が突きささったかと思うような強烈な爆風で、私は後ろの壁にたたきつけられました。その数秒、理容店を営む妻は開店準備で店舗にいたのですが、「爆弾が落ちた」と叫び、私のいる座敷へ駆り込みました。「もう“だめ”」といったように思う妻の悲痛な声を背に、その手を引っぱって屋外へ飛び出しました。その時は爆風で家の中は、がたがたになっていたにちがいありませんが、その中をどのように走り抜けたか、気がついた時は家の前の電車道路を横ぎり、私と妻は芋畑にもぐり込んでいました。

 近くの呉、岩国、大竹が空襲で壊滅した惨状は司令部から撮影に行き、見ています。だが自身が被る恐怖に心臓は早鐘のように打つ。爆風で地上の塵芥が舞い上がり、爆弾の炸裂で降ってくる死の灰が入りまじって霧状になり、太陽光線を遮ります。暗黒の中で、私の直ぐ横にいる妻の顔を見えません。真っ暗の中で硬く握る妻の手の温もりが脈々と伝わり、生きていることの喜びを感じました。10分、15分と時間の経過とともに暗黒は除々に薄らぎ、下の方から前方が開けてきました。B29の攻撃が再びありはしないかと脅えながら、畑から電車道路へ出ました。原爆が使われていたことはまだわかりません。薄暗い煙霧の中から見渡す家の全てが傾き、屋根瓦はずれ落ち、窓枠は吹き飛んで、電車道路を覆っていました。爆風でずたずたに切れた電線が垂れさがる惨憺たる光景に、爆弾はこの付近に落ちたと思いました。司令部へ行かなくては、と身支度に家へ入りましたが、爆風で窓枠はへし折れ、爆風が来た側の壁面は全く抜け、大きな穴があき、壁土が座敷に盛りあがっていました。手のつけようもありません。それでも行かなければいけません。壁土の中からカメラと服を引っぱり出しました。爆弾投下から3、40分はたっていたでしょう。

 御幸橋から鷹野橋へと電車道路を直進。都心へ近づくにしたがって建物の倒壊がはなはだしい。火傷を負う者、けが人の数はぐんぐん増す一方。爆弾はどこに落ちた!不審と焦燥の思いで鷹野橋まで歩を進めました。爆弾投下から約1時間半。この時刻、市内のいたるところから発生した火災は全市に広がり、鷹野橋周辺も一面火の海になっていました。広島市役所、西消防署もまったく猛火に包まれていました。この火災をくぐり都心へ突入することは無理と判断し、御幸橋西詰へ引き返しました。そこから広島大学(当時、広島文理科大学)のグランド南側から平野町方向へ回りましたが、ここでも巨大な炎は唸りをたて、真っ赤なドラム缶が坂道を転げ落ちる勢いの紅蓮の龍巻に阻まれ、再び御幸橋西詰へ引き返すしぎになりましたが、その御幸橋西詰から橋の上にかけてはすでに、数百人の被災者が避難していました。

 爆弾が落ち、火災発生から2時間半余り、猛火の中を命からがら逃げて来た人たちでしょうが、大半の人が、あの一瞬の熱線光で頭髪は焼け縮れ、顔や腕、足、背中のいたるところに大火傷を負い、その火ぶくれが破れ、ぼろぎれのようにぶらさがっている人もいました。熱線光で溶けたアスハルトに靴をとられたのか、はだしの子供もいました、この御幸橋一帯に群がり集まった人のほとんどが、建物疎開の奉仕作業中で、多くは中学校1、2年生、子供連れの婦人などでした。橋の西詰の警察官派出所前で、うしろ姿で判然としませんでしたが、警察官か軍人の2人が、火傷を負う人に食用油を塗って応急手当てをしていました。薬品一つなく、油を塗布するだけの応急処置に、救いをもとめる群集で、派出所前は臨時救護所になったのです。ここを写真にしよう……、首にかけたカメラに手をかけましたが、シャッターが切れません。あまりにも惨い地獄の光景に、私はその場に立ちすくむ思いでためらいました。

 天をいぶる炎と黒煙で薄曇りでしたが、8月の暑いアスハルトに火傷でずるむけの体を投げだす多くの被災者の目が私に集中しているように見えます。その中には、体を動かすこともできない母親の胸にすがりつく幼児の姿。赤ちゃんを横抱きにかかえ“目をあけて、目をあけて”とその子の名前を呼びながら、泣き叫ぶ母親。この大惨事に一枚も撮影できませんでしたではすまされません。職務がかかっています。目の前の多くの被災者がどのように思おうとも、写さなくてはいけません。堰を切ったようにカメラを構えました。目測でシャッターを切りました。一枚写すと心におちつきができ、ゆっくり5、6メートルほど近づき、2枚目の撮影にカメラを構えました。私の軽傷にくらべ、生死をさまよい、断末魔の苦しみに喘ぐこの人たちを思うと、涙が出てファインダーを透す情景がうるんでいたのが、いまも私の網膜に焼きついて消えません。この惨状を2枚でも撮影できたことに、目前で苦悶していた人たちには申しわけないが、責任を果たした心の安らぎを感じました。だけど、「水……水」と嘆願される眼ざしに、「いま軍の救援隊が来ます、頑張って下さい」と慰めと励ましの声をかけ、御幸橋を通り抜けるのに後髪を引かれる思いでした。

 全市の大半を焼きつくす猛火も、午後2時ごろには下火になりました。「もう都心に入れるであろう、新聞社か司令部へ行こう、誰かがいるだろう」と思って、再び御幸橋を渡り、平野町から都心に入ろうと、広島大学のグランド横まで歩を進めました。グランド内の南角に水泳プールがあります。前日の5日、自転車でここを通ったときは、防火用をかねるプールには満々と水がありました。それが周囲一面火の海となり、プールの水はほとんど蒸発して、白いセメントの底に7、8人の骸が転がっていましたが、正視できるものではありません。

 この辺りから火の残る瓦礫で道路は全く塞れていました。焼けくすぶる瓦礫を歩き、社のある流川は辿り着く間、目に映ったのは、焦熱地獄であり、死の街でした。爆風で倒壊した建物の下敷きになったり、崩れ落ちたビルの瓦礫にはさまれ、逃げることもできず生きながらに焼け死んだ人たちの骸は、私が歩いた富士見町、田中町、流川町だけでもおびただしく、私の視覚神経も麻痺していたためか、死骸が死骸の感じを失っていました。目指す新聞社へ着きましたが、そこには誰もおらず、余燼がくすぶる外郭だけがありました。福屋旧館東寄りで爆風に飛ばされ、歩道に車両が半ばはみ出た電車を見ました。広い電車道路も、爆風と数時間の猛火で街路樹は焼けちぢれ、鉄骨も飴のようにくねくねと曲がっていました。電線が倒れた電柱にからみ、電車道路いっぱいに覆い、その中に赤茶に変色した鉄兜、軍刀が散乱しており、敗戦の哀れをまざまざと見ました。

 木造は全く焼け落ち、白煙がくすぶる中に、外郭だけが残るビル街の紙屋町へ進みました。その電車道路の回り角(当時、紙屋町電停)に、焼けた電車の残骸がありました。遠目から見るとその中に人がいます、近づいて電車の乗降口のステップに足をかけ車内をのぞきました。瞬間、体がすくみました。そこには折り重なる十数人の死体がありました。“紙屋町は爆心地から200メートルの至近距離”。強烈な熱線と爆風は、十数人の生命を一瞬に奪い、そのまま電車もろとも猛火に包まれ、焼け死んでいる形相は、絵で見る不動明王のようでした。

 紙屋町一帯は現在と同じで、当時から東京方面からの大手の銀行、保険会社の出先機関が立ちならぶビル街。その一つ一つのビルの入口に、2、3人の折り重なる死体がありました。“住友銀行入口の階段に焼けついた人の影”もその一つで、爆心地に近いこの辺りは、ほとんど生存者はありません。死体の累々と続く中央部では、歩いている人には全く出会っていませんが、電車道路ぞいの袋町、国泰寺町辺りで、2、3の人に出会いました。家族の安否を思い市内に入った人でしょうが、無残に変わり果てた死の街に、ただ黙々と歩いていました。

 樹齢300年、おとなの腕で三抱えもある大楠、白神社境内にあって、日本銀行広島支店をこっぽり覆うほどの樹葉は、暑い陽ざしを避け、休憩するのに格好の場所でしたが、爆風で根こそぎ倒れ、猛火に長時間苛れながらも、なお大木の形は残っていました。だがその回りには幾人かの死体がありました。焼けただれた広島市役所、焼け落ちて跡形もない西消防署の瓦礫の中に、大火災に無抵抗の残骸をさらす消防車。

 鷹野橋、日赤病院前を歩き、御幸橋へ帰ったのが夕刻5時近くで、橋の上にはまだおおぜいの罹災者が残っていました。橋の西詰よりに、陸軍船舶隊の救援トラックが来て、4、5人の兵隊が、動けない人を安全なところへ運ぶ救助活動をしていました。6日の5時ごろで、火傷を負った人の、ずるむけの傷跡に無数の蛆虫が発生しました。救援トラックは罹災者を、宇品の国立病院、船舶隊兵舎へ運びました。しかし、その救助運搬には限りがあり、多くの罹災者は足を引きずり、あてもなく群衆の行く宇品方面へ列をなして、付いて流れました。

 その夕刻から、御幸橋を東南に向かって約150メートルの、電車道路回り角で、宇品警察署の須沢署長ら4、5人の署員による罹災証明の発行が行なわれました。罹災証明を書く警察官(藤田徳夫氏)も爆風で負傷しており、その作業は、日が落ち、暗くなるまで続きました。罹災証明をもらった者は、その証明を別の警官に見せ、救援食料のカンパンを一袋もらう。私も同じように一袋もらって、その晩の糧にしました。

 長時間、灼熱地獄の中を歩き、家に帰るまで、妻のこと家のことを、全く思い出すことなく忘れていました。妻の元気な顔をみて、朝、家を出る時は気がつきませんでしたが、私の家の真向かいにあった、木造4階建ての消防署が爆風で崩壊していました。一瞬の熱線光で、望楼にいた人は、顔半面に大火傷を負い、階下の数人が消防車もろとも木材の下敷きで負傷。それに加え、妻の姪に当る広島女子商中学2年(中村美智枝)が、建物疎開作業中、熱戦で顔、背中、腕、足に大火傷。逃げる時、靴が脱げ、足の裏まで火ぶくれになり、私の家へ避難していました。私が市内を回っている間、妻は姪や消防署の人の看護に当っていたのです。薄暗い防空壕で、「痛いよ、熱いよ」と悲痛の呻きに、破れたしぶうちわで風をおくることが、その日の精いっぱいの看護でした。

 長い戦慄の1日は暮れました。都心の空は残り火が陽炎のようにたちのぼり、薄ら明るくなっていました。崩壊した消防署の残骸に疲れた体を休め、長かったきょうの無間地獄の阿鼻叫喚を話し合いました。原爆炸裂のとき、妻は鏡に映った真っ赤な火の玉を見たといいます。夜のとばりも落ちて、都心の彼方で残り火の炎が、きょうの修羅の巷を哀れむが如く燃えては消えていました。それは死者の霊を弔う篝火のようでした。赤い瓦礫に死体が累々と転がっている都心部を2時間半あまり歩いて、1度もシャッターが切れませんでした。撮影したのは原爆投下約3時間後、御幸橋西詰の2枚。午後市内に入る前自宅で2枚。夕方、皆実町で罹災証明を書く警察官の姿の合計5枚に終りました。しかしあの極限状況で数コマでも撮影したことを、わずかながらも自負しています。

 原爆のもたらした罪悪で、終戦後も私の眼に焼きついた、いくつかの1コマに疎開児童のことがあります。敗戦が濃厚となった昭和20年3月、学童疎開強化要綱が閣議で決まり、4月3日その第1陣の大手町国民学校児童47人、教師3人の出発に私は取材同行をしました。子供たちはお寺で集団生活。そのなかには逃げて帰る子供もいました。市内全校で約9,000人。この子供たちが終戦で広島に帰りました。そのとき、両親や家族の出迎えのあった子供は、3か月余り両親と別々であった寂しい心の中が爆発したかのように、迎える両親に走りより、しがみつきました。この感涙の光景を寂しく見ている大ぜいの子供たちがいました。原爆で死に、迎えに来ていない両親を持つ子供たちです。付添いの教師は、なんと言って説明したか。「お父さん、お母さんの見えてない人はこちらへ」と、少し離れたところへ移動させました。子供を誘導する先生も苦しかったことでしょうが、悲喜両面の取材に当たり、私も胸の熱くなるのを感じました。戦争がなければ、このような悲劇もない、この子供たちの両親も死ぬことはなかったのです。戦争がいかに罪悪であるか、悲憤やるかたない思いで撮影しましたが、8月6日御幸橋西詰の地獄絵図とともに、私の心の中から消えることのない被写体でした。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」このユネスコ憲章の心を踏まえ、再び繰り返してはいけない、戦争の悲劇を。いまもなお傷跡の残る原爆の惨虐を。あの日数十万の人が死に、そのあとも次々と多くの人が死んでいきました。その中にあって、今日まで生きのびている私は、原爆犠牲者の鎮魂を祈るとともに、次の世代への原爆悲惨の継承に余命を捧げるものです。

出所:平和図書No.6『被爆証言集 原爆被爆者は訴える』第2版、財団法人広島平和文化センター編集・発行、1999、108-116頁

まつしげ・よしと(1913-2005)
当時、中国新聞写真部員で中国軍管区司令部の報道班員だった。広島原爆被災撮影者の会代表として、写真集「広島壊滅のとき」などを発行した。

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