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連載・特集

ヒロシマの記録―遺影は語る 天神町北組

頭上で一閃 命かき消す


※1998年10月15日付特集などから。
■記者 西本雅実、野島正徳、藤村潤平

 被爆都市ヒロシマの祈りと誓いを刻む広島市中区の平和記念公園。史上初の原子爆弾は、この公園の東指呼の距離、上空600メートルで爆発し、人を街を跡形なく、かき消し去った。

 公園内の元安川に面する一角に「天神町北組」と呼ばれる街があった。昭和初期の街並み図を広げると、東西約80メートル、南北約280メートル。通りには産婦人科、内科、眼科や酒卸、京染、紋屋などの商店が看板を掲げ、広島有数の旅館もあった。それが1945年8月6日、閃(せん)光の下に消えた。

 母を捜して、7日に天神町に戻った女性は、旧住民たちが寄せた原爆体験記『あの日に』(75年刊)で被爆の実態をこうつづっている。「家の焼け跡付近には頭蓋(がい)骨、四肢骨、骨盤等が全体で約10体余りころがっていた。脊髄(せきつい)骨などはつまむとはらはらと灰のようにくずれ散った」

 体験記を編んだのは、原爆投下前日まで北組で暮らしていた広島県安芸郡府中町の進藤博さん(86)。広島大原爆放射能医学研究所などによる70年代の爆心地復元市街図作成に携わった。進藤さんがこつこつ集めた記録を手掛かりに、関係者遺族を訪ね歩き、全国に手紙を送った。

 「灰のようにくずれ散った」原爆死没者たちを、目に見えるかたちでよみがえらせ、ヒロシマの祈りと誓いを21世紀に引き継ぎたいと思うからだ。

 高齢化する被爆者遺族たちの「時の風化」に抗(あらが)うような協力の結果、45年末までに亡くなった住民と、そこにいた164人の被爆死状況(うち1人は48年死去)が判明し、うち133人の遺影の提供と確認を得た。

 しかし、これは「あの日」消し去られた人たちのほんの一部でしかない。

 平和記念公園は来年から、国の原爆死没者追悼平和祈念館の建設が始まる。遺骨さえ破壊し尽くした原爆に対して、北組にとどまらず、消えた街を、学校や職場からの動員で亡くなった人たちを、市民の協力でさらに訪ね歩き、ヒロシマの20世紀を記録していく。

(注)「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」は、2002年8月に開館した。

天神町北組の死没者名簿1

天神町北組の死没者名簿2

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