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連載・特集

ヒロシマの記録―遺影は語る 猿楽町

爆心 消し去られた生 ドームの街
※1997年7月23日付特集から

 「生き残った我々の手で街を復元し、亡くなった人たちを追悼しよう」。爆心地の元住民たちが1997年夏、未来への継承も願い、被災記録の掘り起こしと、新たな追悼に立ち上がった。街の名は「広島市猿楽(さるがく)町」。

 原爆ドームは史上初の原爆で一瞬のうちに消えたこの街で、かろうじて残り、96年末にはユネスコの「世界遺産」に登録された。街区は原爆投下の照準になったといわれる相生橋東詰めまでの、東西500メートル足らず、南北は最長でも約150メートル。ビルが林立する現在の中区大手町1丁目と紙屋町2丁目に当たる。

 建具、味噌(みそ)、自転車、行李(こうり)、傘屋…。被爆前は、格子戸をもつ二階建て家屋が軒を連ね、夏ともなると、子どもたちは元安川で泳ぎ、近くの墓地で肝試しをした。ドームの前身、広島県産業奨励館の敷地で三角ベースにも興じた。軍靴の足音が響く時代も、庶民の息遣い、ぬくもりがあふれた。それが1945年8月6日朝、すべて消し飛んだ。

 今、被爆前から住み続けるのは、わずか3世帯。その人たちが知る消息を手掛かりに切れた糸をたぐり、97年7月22日現在、45世帯の元住民を訪ねた。大半が、学徒動員や徴用先の工場で被爆したり、郊外の疎開先から肉親を探して爆心地へ入っていた。親や兄弟の遺骨さえ見つからない遺族でもあった。

 そうした過酷な体験をもつ元住民たちの協力で、45年末までに亡くなった91人と翌年の一人の被爆死状況が判明し、原爆投下直前の復元戸別概略図ができた。併せて、産業奨励館内の内務省中国四国土木出張所に勤めていた人たちの遺族にも連絡し、遺影の提供を呼び掛けた。

 その結果、住民と勤務の死者122人のうち、102人の写真(一人は肖像画)が見つかった。「あの日」まで元気で暮らしながら突然に、生を絶たれた人たちの姿である。

 市の46年の「被害状況調査」によると、猿楽町の被爆前世帯数は260世帯、1055人とある。被爆時の居住者は疎開などでこれより少ないとみられるが、被爆50周年にまとめられた最新の「原爆被爆者動態調査」でも、45年末までの確認死者数は100世帯、240人にすぎない。

 地域全体を根こそぎ破壊した原爆の威力をまざまざと示すように、猿楽町ゆかりの人たちが一体どれだけ、どこで、どのように亡くなったのか。今も未解明の部分は多い。それは、この街だけにとどまらない。(報道部・西本雅実)

<住民関係>

 死没者の名前(年齢)▽職業▽爆死状況▽45年8月6日の居住者(疎開や応召は除く)と、ほかの家族らの被爆状況=いずれも遺族の罹(り)災証明書などの記録や、聞き取りに基づく(敬称略)

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