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連載・特集

遺影は語る 世紀を超えて<下>

あの記憶、忘れてはならぬ
※2000年6月29日付けの特集などから

■記者 西本雅実・野島正徳・藤村潤平

 広島市中区の平和記念公園にある原爆慰霊碑は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻む。廃虚からの復興途次にあった1952年に建立され、原爆死没者名簿の奉納が毎年の平和記念式典で歴代の市長により続く。これまでの登載者は21万2116人。今年も21日から、記帳が市役所で始まった。昨年の式典以降に亡くなった被爆者や、新たに死没が分かった人の氏名が、今世紀最後となる「8月6日」に加わる。

 瀬戸内に浮かぶ黒髪島産の御影石で造られた石室に納まる「名簿」は、史上初めて原爆が使われた1945年8月6日に始まるヒロシマのおびただしい死者たちの記録である。しかし今は、遺族でさえ触れることも見ることもできない。

 ▽「展示しては」

 「死没者を『開かれざるタイムカプセル』に封印してしまっては名簿が持つ意味、メッセージは伝わらない」。原爆資料館の資料調査研究会メンバーである比治山大の島津邦弘教授は、資料館展示のあり方についても昨年、提言した。

 「広島、長崎以降の核状況を見ると、『起き上がって語り続けてください』と言うべきだろう。死没者の遺影を可能な限り収集し、展示することは、原爆の人間的悲惨さを直接訴える、深い感銘を与えるものになるのではないか」

 中国新聞社はこの3年間、原爆ドームだけを残して消えた街「猿楽町」をはじめ、平和記念公園となった町で暮らし、働き、動員作業に就いていた一人ひとりの「8月6日」を遺族の協力を求め、追いかけてきた。21世紀を前に、今も未解明のままになっている被爆死の実態に一歩でも迫りたいと考えたからだ。

 ▽55年ぶり追悼

 一連の報道がきっかけとなり、猿楽町の旧住民は1940年前後の街並み戸別地図をまとめ昨年、原爆ドーム横に「被災説明板」が設けられた。県立広島二中(現・広島観音高)は今年4月、新たに分かった死没生徒2人の名前を碑に刻んだ。公園内の西側にあった「元柳町」の旧住民はこの夏、55年ぶりに合同追悼式を営む。「死没者の、残された者たちの、思いを来世紀に引き継ぐため」という。

 3年間に接した遺族は3000人を超す。学童疎開先で独りになったのを知り、沈黙を貫いていた人は少なくなかった。伴りょを失って再婚し、今の家族には胸のうちを秘めていた人もいた。いえぬ傷を押し開けるような求めを最後まで拒んだ遺族もいた。残された者たちは「人間的悲惨さ」に耐え、生き抜いていた。

 ▽確認は一部分

 そうした人たちの協力で、原爆死没者名簿の基になる46年の市の「被害状況調査」に名前の載っていない死没者が相当数いることが分かった。だが、旧住民や動員学徒の銘碑に刻まれているのに、その詳細がつかめなかった人も多数に上った。われわれが確認したのは、「あの日」消し去られた人たちのほんの一部でしかない。  「原爆を、人間の体験としてどう伝えていくか。人間が『してはならない』問題としてとらえ直せば、許されていいのかということです」。被爆史を専門にする広島大原爆放射能医学研究所の宇吹曉助教授は、原爆を一人ひとりの人間の上に起きた問題として見ることを説く。

 原爆は、歳月とともに遠ざかっていくのではない。今を生きる者たちが忘れたとき、消え去っていくのだ。「遺影」はそのことを語り掛けている。

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