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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<3>

手製の夏服 「國防色」に胸弾ませ
学業への思い 日記帳に刻む

■編集委員 西本雅実

 「女学生の夏服とシュミーズ」が広島市の原爆資料館に展示されている。「大竹の両親のもとに運ばれましたが、その日の深夜死亡しました。この夏服は自分で縫ったものです」との説明が付く。廃虚を再現したパノラマのそばにあり、入館者の多くが足を止めて見入る「1945年8月6日」を伝える遺品だ。

 着ていたのは大下靖子(のぶこ)さん(13)。広島県女1年6組だった。20年前に寄贈した父定雄、母マスヱさんは亡くなっていたが、姉の福森洋子さん(77)に会えた。大竹市西隣の山口県和木町に住む。

 「大竹国民学校に夕刻運ばれてきて私も駆け付けました。『水をちょうだい』というので、私がやるとこぼれてしまい、『お姉ちゃん下手ねえ』といいました。死ぬとは思いませんでした」

 洋子さんは、両親から受け継いだ靖子さんの「昭和20年」の日記帳を大切に保存している。

 「學(がく)業に勵(はげ)まふと決心しました」。靖子さんは「4月6日」の入学式に始まり、戦時下をひたむきに生きた日々を「7月15日」まで鉛筆でびっしりと書き込んでいる。

 夏服は「6月13日」から縫製していた。

 「今年は白色ではなくて國(こく)防色かねずみ色のやうなきれで制服を作るやうになりました。それは何故(なぜ)かと申しますと敵機來(らい)襲の時白いものは目標になりやすいので」とつづり、帰宅後に母からもらったきれが「國防色でしたのでうれしくてたまりませんでした」と胸弾ませている。

 靖子さんら県女1年生223人は自ら縫ったその夏服を着て、「8月6日」に爆心地から約800メートルとなる小網町一帯の建物疎開作業へ出た。

 前日の日曜日、洋子さんは和木町の製紙工場での動員を済ませると妹が門の前で待ち受けていて、一緒に川で泳いだことを今も鮮明に覚える。自身の「昭和20年」の日記も残していた。当時、岩国高女(現岩国高)の3年生。

 家族の衝撃を物語るように「8月6日」は空欄だった。翌日にノート4ページにわたり「たった一人の可愛(かわい)い可愛い妹!」の死と葬儀を克明に書いていた。

 靖子さんは大竹国民学校から自宅に運ばれる。洋子さんは午後10時ごろいったん床に着いた。

 「お父さんとお母さんの泣き聲(ごえ) もしやと飛(び)起きていつて見るともう手の先の方のつめたくなった靖ちゃんをお父さんとお母さんがだきしめておられた」「靖子ちゃんの後やかれた人も国民学校の同級生で お母さんが靖ちゃんもさみしくなくてお友達と遊べて嬉(うれ)しいでせうと言われた」

 今、洋子さんは孫5人の祖母でもある。

 「戦争や原爆がどんなものか、孫たちもビデオを見たりして、感じてはいるとは思いますが分かっていますかねえ…。過ごしてきた時代があまりにも違いますから」。靖子さんの日記を箱に納め、こう付け加えた。

 「勉強したくても満足にできず容赦なく焼かれたことを、あの夏服から分かっていただければ、語り継いでいただければ、ありがたいですね」。8月6日は、今年も県女跡の中区の平和大通りに立つ碑前で営まれる追悼式に参列する。

(2008年7月29日朝刊掲載)

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