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連載・特集

広島県女1年6組(1945-2008年)<5>

妹の生と死 伝承誓う
日記刊行機に精力的に活動

■編集委員 西本雅実

 広島市中区に住む細川浩史(こうじ)さん(80)は、真夏日のこの日も背広を着て証言会場に向かった。手提げかばんの中には広島の原爆被災図とともに、妹の遺品である万年筆を収めていた。

 「私は爆心地約1.3キロの勤め先の広島逓信局にいました」。被爆の瞬間から帰宅して知った妹の死を、「広島研究旅行」で訪れた法政大女子高(横浜市)の3年生22人に語っていった。

 広島県女1年6組だった妹の森脇瑤子さん(13)は「8月6日」、西郊外の観音村(佐伯区)の観音国民学校に運ばれる。看護に当たった主婦に、宮島(現廿日市市)に住む母への連絡を願う。「手を握らせて…」とも求め、亡くなった。

 「明日から家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思ふ」。妹が「8月5日」まで愛用の万年筆で書き続けた県女時代の日記、主婦が宮島の知人にあて最期の様子を伝えた直後の手紙、中国から翌年に復員した音楽教師の父が娘との再会を夢見てつくっていた歌…。

 細川さんは、それらを被爆50年の翌1996年に「森脇瑤子の日記」と題して刊行した。兄と妹は異父きょうだいであり、一つ屋根の下で過ごしたのは被爆前のわずか11日間だった。

 それでも「一緒に暮らせるようになった妹の死は生涯最大の悲しみ」と言う。日記の出版は「瑤子の生きた証しを残してやろう」との思いから。文面をワープロに打ち替えるうちに「瑤子がよみがえり、目の前で会話している楽しい気持ちになった」とも。異父を引き取りみとった自宅を訪ねると、繕わずに話した。

 中学の歴史教科書に転載される日記の刊行を機に、被爆した職場の同僚であっても触れるのを避けてきた妹の死を広島の児童・生徒や修学旅行生らに語るようになった。

 この3月には「全米原爆展」を開く広島市から派遣され、カリフォルニア州で証言した。「米国を恨んでいるか」。そう尋ねられ、培ってきた考えを率直にぶつけた。

 「罪のない市民が焼き殺された憤りはある。しかし、恨んでいるのは戦争。戦争は国家の名のもとのテロだ」と述べた。聴衆からは拍手も起きたという。妹ら広島県女1年生の生と死を語ることを通して、ヒロシマを伝えられたと思った。

 証言活動は年に5,60回を数える。「いずれ分かってくれるだろうと願う『継承』ではなく、意識して伝え、自分のこととして受け止めてもらう『伝承』が大切」が持論。自らの「残り時間」をも意識しているからだ。

 法政大女子高3年生への証言は1時間半に及んだ。幾人かの生徒は終わった後も進んで残り、受け止めを口にした。「悲しみだけじゃないと知った」「原爆は実際に聞くとリアル。考えさせられた」。細川さんが見せた瑤子さんの万年筆を真剣なまなざしで触れた。

(2008年7月31日朝刊掲載)

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