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連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 <1>

砂糖きびの島 広島からハワイへ両親は移民した

■編集委員 西本 雅実

 被爆直後のヒロシマに母を捜して入り、目撃した惨状を1945年8月27日、いち早く世界に向け報じていたハワイ出身のレスリー・ナカシマ(日本名は中島覚)。「ヒロシマ打電第一号」だった彼とその家族の軌跡を追うと、太平洋を挟む日米の波乱に富んだ歴史が、わだちのように刻まれていた。

 北緯22度。太陽が照り付けているのに、山の頂はにじが架かる。ハワイ諸島の西側に位置するカウアイ島。年間雨量が米国50州内で最も多いという。人口は5万6000人。面積は広島市と比べて約2倍になる。そこがレスリー・ナカシマの郷里だ。

 「ヒロシマ最初のルポはハワイ生まれのレスリー・ナカシマによって書かれ、UP通信(現UPI)から打電された」。2年前に英文で刊行された日本外国特派員協会(本部東京)の創設五十年史を手にして以来、関係者を捜し訪ねた。

 ナカシマは死去したが、奥さんが健在では。2人の娘さんが確かいた…。

 UPの元同僚たちの情報をつなぎ合わせ、若者でにぎわう東京都港区の表参道近くのマンションを訪ねると、妻も昨年6月に亡くなっていた。肩を落としかけたところ、管理人が耳打ちした。ナカシマの長女鴇田(ときた)一江(61)が別の階に住んでいた。

 「お父さんが原爆について記事を書き最初に打電したと知ったのは、最近です」。一江が記事を知ったのも、やはり特派員協会の五十年史だった。「英語だと家庭でも冗舌でしたけど、日本語になるとすごく物静か。名声や評判にこだわる人じゃなかった」と、10年前に88歳で死去した父の横顔を話した。

 父が残した英文の手紙や書類を広げ、東京生まれの一江は20歳すぎまで米国籍だったと話した。手紙には、歴史の荒波を強いられた日系二世の心情がつづられていた。「叔父がホノルルにいます。ハワイ時代のことなども知っていると思います」。そう言って電話番号を教えてくれた。

 叔父のヘンリー・ナカシマ(75)は、長兄のレスリーから数え11人兄弟の末にあたる。「こちらでは使うことがないから、舌が回らないね」。会うなり滑らかな日本語で冗談を飛ばした。大戦中に志願。米軍情報部通訳兵としてフィリピンから東京に進駐したのを含め、8年余の滞日経験を持っていた。

 「僕が生まれたころ、おやじはシュガーケーン(砂糖きび)を切って車に積む仕事をやめ、かじ屋のショップを出していたよ。上手なもんだから白人のルナ(ハワイ語で農園監督官)が島の反対側からも来て、英語ができるママが注文を聞いていたなあ」

 ホノルルから同行し、カウアイ島で道案内のハンドルを握ったヘンリーは、広島弁のイントネーションを交えて振り返った。両親は、ともに当時の広島県安芸郡仁保島村(現在の広島市南区)の出身。砂糖きび耕地が広がっていたこの島に移民した。

 州の公文書館が保存している1900年以前の上陸名簿に、ナカシマ兄弟の母タケノの名前が残っていた。

 「1895年上陸。カウアイ島ハナペペにいる父に会うため」。名簿にはそう記されていた。タケノの父が移民したのは1885年。日本が当時のハワイ国と結んだ第1回の「官約移民」が横浜港から出た年だ。そしてタケノは同じ仁保島村出身の與之助と結婚。1902年、長男レスリーが生まれる。

 ナカシマ家族の歩みは、まさにハワイ日本移民とともに始まった。(敬称略)

(2000年10月6日朝刊掲載)

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