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連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 <4>

廃虚の地 被爆の影響に耐え世界的スクープ

■編集委員 西本 雅実

 東京都港区に住むレスリー・ナカシマの長女、鴇田(ときた)一江(61)は、大戦中に母と妹の三人で広島市仁保町(現在の南区)に疎開していた。「1年もいたのかなあ…」。半世紀以上前の記憶をたぐりよせた。

 胸を患い療養所にいた母は1943年冬に退院が許され、渋谷区内の自宅で療養を続けていた。日増しに激しくなる空襲に、父が広島への疎開を勧めた。祖父が44年7月に69歳で死去してからは、祖母が1人で暮らしていた。

 「結婚前は銀座で働いていた東京生まれのお母さんは、ネズミが出るなどと言って、広島から帰りたがっていたのを覚えています」。一江たち3人は、母の知人がいた長野県に転居する。原爆が投下される2週間前のこと。祖母タケノ=当時(61)=が1人残った。

 ナカシマが被爆16日後に入り、目撃した惨状を初めて世界に伝えるきっかけは、母タケノの安否を確めるためであった。「私は8月22日午前5時、母を捜すため広島に着いた。列車から降りると(略)30万都市は消えていた」

 記事は、米国の通信社UPが「東京8月27日発」で配信し、31日付ニューヨーク・タイムズに掲載されるなど、米国の主要な新聞や雑誌が取り上げた。ただ、発信日には1つの疑問が浮かんでくる。

 日本占領の指揮を執るマッカーサーが神奈川県厚木飛行場に降り立ち、横浜に進駐したのは8月30日昼。それを取材する従軍記者112人の上陸は、その早朝である。米軍戦艦は27日に相模湾に入っているとは言え、どのようにして打電したのか。

 「東京に入った従軍のUP記者に記事を手渡すと、彼はニューヨーク本社に送るため米軍戦艦がいる横浜に取って返した」。ナカシマは、75年の引退後にしたためた回想記でそう言及している。

 「8月27日」は、記事に「食欲が減退し、疲れてしまう」と書き残しているように、被爆の影響を押し、東京で執筆した日付だろう。世界的なスクープを手にしたUPがそれを発信日とした、とみる方が無理がない。いずれにしろ、「今も毎日、死者が出ている」と証言したルポは米国に衝撃を与えたに違いない。軍の原爆調査団は翌月に来日するやいなや、放射線の影響はないと声明した。

 ナカシマは本社幹部にこわれ、毎日新聞社内に9月再開したUP東京支局に復帰した。ようやく自分の言葉である英語で取材し、書ける世界を取り戻した。

 「マッカーサーより2週間後に横浜に上陸し、UPを訪ね『アー・ユー・レスリー?』と言ったらびっくりしていました。僕が軍服を着ていたしね」。ホノルルに住むヘンリー・ナカシマ(75)は、その場面を笑い声を上げて述懐した。

 ヘンリーは、米国政府が43年に方針転換して日系兵士を認めると、兄レスリーも学んだハワイ・ホノルルのマッキンレー高校を中退して志願した。

 「ミネソタ州のMIS(米軍情報部)で訓練を積み、日本語を通訳する兵隊でした」。原爆投下に続く、日本の降服もフィリピン・マニラで知ったという。家族との再会に向け、じりじりする気持ちで進駐を待った。

 兄から母の無事を聞き、1人で広島へ向かった。ハワイから引き揚げた父母に連れられて来日。竹屋小学校に通っていたころ住んでいた富士見町(中区)も訪ねた。その写真を見せながら、「本当に何もなかった」と思い起こす。兄レスリーが書き記したように「言葉を失ってしまった」。(敬称略)

(2000年10月10日朝刊掲載)

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