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連載・特集

ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 <6>

異郷の地で くしくも「開戦日」 88歳の生涯閉じる

■編集委員 西本 雅実

 「レスリーが日本国籍となり、市民権をなくしていたなんて知らなかった」

 ハワイ・ホノルルに住むヘンリー・ナカシマ(75)は、11人きょうだいの長兄が戦後に米国市民権の回復を求め、つづっていた書簡を手にすると、驚きの表情を広げた。「僕がMIS(陸軍情報部)の通訳兵で東京にいたころ言ってくれたら、軍にヘルプしてもらえたかも…。なぜずっと言わなかったのだろう」。考え込むように話した。

 ヘンリーは1947年に除隊するとホノルルに戻り、1つ年上のジェーン・ムラタと結婚。後に市営となるバス会社で41年間勤め上げた。その間、夫婦で日本を旅行し、兄はハワイに幾たびか足を運んでいる。母タケノがいた。

 タケノは広島市仁保町(現在の南区)で被爆後も1人暮らしを続け、晩年はナカシマきょうだいの故郷カウアイ島で、パイナップル農園を営む長女夫婦のもとに落ち着いた。

 「ママが死んだのは、レスリーがハワイに遊びに来て見舞った直後のこと。顔を見て安心したのだろうと皆が言いました」。67年に83歳で死去した。兄が遺骨を引き取りに来た。

 その後、兄とホノルルや東京で会うと、もっぱらの話題は互いに好んでするゴルフになった。

 兄が原爆の投下16日後に母を捜して入ったのは、日本進駐後に聞いていた。目撃した惨状をいち早く世界に打電したことは「この前、一江ちゃんに送ってもらった本で初めて知りました」。ナカシマの長女、鴇田(ときた)一江(61)=東京都港区=が、2年前に打電の事実に触れた日本外国特派員協会の英文の五十年史を送っていた。

 一方、一江は、母八千代が83歳で昨年6月に死去した後、墓参した叔父から、父がハワイ時代に結婚し、日本行きをめぐる意見の違いから別れていたのを知った。「家族を愛している」といつも言っていた父の言葉が胸によみがえった。「障害を持ち亡くなった妹にも、ずっと態度で愛情を表していました。大変だったとか口にしない。常に前を見る楽天的な人でした」

 ところで、ナカシマは原爆の投下そのものをどう見ていたのか。一江は父に尋ねたことがあった。すると「戦争を1日でも早く終わらせるためにはしかたがなかった」と答えたという。

 ナカシマは、一江が言うように「ものの見方は日本サイドに立っていなかった」。また、そこには日米開戦で「敵性外国人」とみなされ、戦後は生来の米国市民権を否定された、辛酸をなめた戦争体験がうずいていたに違いない。

 弟のヘンリーにも同じ質問をぶつけてみた。

 「日本の降伏が遅れていれば、僕は九州への上陸作戦に参加することになっており、どうなったか分からない。戦争をストップするためだったと思う」。米国で一般的な、日本の真珠湾攻撃があったから原爆に至ったという意見ではない。戦争そのものが残虐な兵器をつくり出し、使わせたのだという受け止め方だ。

 レスリーは73歳まで、UPIとなった米国の通信社の東京特派員として記事を書き続けた。引退後はゴルフやポーカーを楽しみ、83歳の年に倒れる。晩年は長女一江の夫が勤務医でいる福島県いわき市の病院で過ごし、そこで90年に亡くなった。

 「お父さんの人生を象徴しているようでした」

 日本名は中島覚、レスリー・ナカシマの命日は、くしくも日米開戦日に当たる「12月8日」。享年88歳だった。(敬称略)

(2000年10月12日朝刊掲載)

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