平和公園に眠る街 中島本町 <1>
09年1月1日
■編集委員 西本雅実<br><br>
<div style="font-size:14px;font-weight:bold;">めぐり来る夏 爆死の肉親10人 孫と弔う</div><br>
広島市の平和記念公園は、史上初の原爆投下による廃虚の中から造られた。建設の礎になった「広島平和記念都市建設法」は、今年の8月6日に施行50年を迎える。木々が生い茂り、大小さまざまな碑が立つ。市民が憩い、観光客が集う。その光景を一皮めくれば、死者たちが眠る街であることを忘れない人たちがいる。この地で生まれ、肉親を奪われた「中島本町」ゆかりの人たちと「死と生」のヒロシマを歩く。<br><br>
「公園内のこの道は、原爆前は相生橋から真っすぐ延びていて、この辺りです」。安佐南区に住む武田京子さん(64)は、本川左岸に面した「中島本町98番地」の生家跡に立つと、ため息をかすかについた。対岸に見える母校、本川小の位置だけが変わらない。 <br><br>
「覚えているのは、ハエを払いながら地面を掘り返したこと。それで出てきたのは食器類なんよ」。笑顔交じりに話しながら、時折、自身を突き放すような口調で語った。「原爆の後は気がふれとったんじゃない? 年端のいかない子どもが両親きょうだい、だれ1人おらんようになったんでは」。10歳だった。<br><br>
本川国民学校5年の少女は、家族と離れて集団疎開先の広島県双三郡十日市町(現・三次市)にいた。記録によると、3年生以上の児童205人(うち女子79人)は1945年4月15日、広島を出て、町内4カ寺に分かれリュックの荷をほどいた。広島市全体で8365人が学童集団疎開にあった。 <br><br>
「汽車の中では修学旅行気分が、翌日はみんなものも言わなくなりました」。寂しさを紛らわす楽しいはずの食事は、米が少し交じっただけの麦めしに、いり大豆。ひもじさのあまり、持参した胃腸薬をかじっていたと笑う。 <br><br>
心待ちにしていた面会は、父義顕さん(37)と母藤枝さん(33)、母の妹の高木久胡さん(17)が、食べ切れないほどのおはぎを持ってきた。「ほかの人たちはどこも1人だけだったのに、3人も来たので先生にしかられて…」 <br><br>
公園近くの喫茶店で続いていた話は突然、せきを切ったような涙で止まった。「その先生が『ご免ね。あれが最後じゃったんじゃね』と…」「政府の命令とはいえ疎開に行くより、家族一緒に死んだほうがよかった…。今もそう思うよ」 <br><br>
8人家族が、武田さん1人になった。原爆投下後、疎開先の寺にいち早く迎えに来た母方の祖父も、河原町(中区)の自宅などで妻と子の3人を失い1人に。その祖父が育ての親となり、武田さんは21歳で結婚。洋裁の仕事を続けながら1980年、今度は祖父をみとった。 <br><br>
「原爆で身内が10人も亡くなったのに、法律はどこか矛盾しとるね」。国が4年前の被爆者援護法施行で、被爆者健康手帳を持つ遺族だけに葬祭料を支給したことを言うのだ。武田さんは手帳を持っていない。人影が消えた爆心地で遺骨を捜し、入市被爆したことを証明する人がいない。<br><br> 「原爆のむごさは、実際に遭うのと、見たり想像するのでは違う」。求めに応じてあえて口を開いた武田さんは、孫たちにも「あの夏」を話題にする気はないという。「だって、元気なおばあちゃんが、孫の前で涙は見せられないじゃない」。潤んだ目元に笑顔が広がった。
その孫たちを連れて8月6日は、中島を流れる元安川に向かう。「武田」と祖父の家族「高木」。2つの灯ろうを流し、川面にそろって手を合わせる。初孫は小学3年生になった。 <br><br>
(1999年7月28日朝刊掲載)<br><br>