×

連載・特集

平和公園に眠る街 中島本町 <5> 

■編集委員 西本雅実

戦時の写真館 兵士の生と死焼き付ける

 街は子どもの四季を鮮やかに彩った。夏は元安川と本川で真っ黒になるまで泳ぎ、慈仙寺境内であったラジオ体操の「早起き会」は褒美の鉛筆が出た。秋の亥(い)の子は菓子、節分は十銭玉や、二重焼きまんじゅうもまかれた。

 高橋久さん(70)はひとしきり幼いころの思い出を語り、「中島本町35番地」の高橋写真館跡に立った。「フィルムはガラスの乾板。現像した乾板に鉛筆で目鼻立ちを修正して、焼き付けした後は冬でも丹念に水洗いし、一枚一枚切る。手間が掛かる仕事でした」

 誕生や入学、親族の集合記念、出張撮影…。両親は毎日忙しく働いた。父は昭和初期の1920年代にスタジオを構え、母は着付けを担った。繁華の中島には4つの写真館があった。

 門出を記録する写真館を戦雲が覆う。高橋少年が広島高師付属中(現・広大付高)に入ったその年の1941年末、日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲した。戦地に向かう兵隊が「家族に送りたい」と居住まいを正す記念撮影や、入れ替わるように持ち込まれる息子や夫の「遺影」の引き伸ばしが仕事になった。

 「ひたすら生きていた時代。勝つとか負けるとか思う余裕すらありませんでした」。机に代わって工場の旋盤に連日向かった。卒業後は、広島県安芸郡江田島町にあった海軍兵学校へ進んだ。77期。

 兵学校最後の生徒は「あの日」、2階の自習室で青い閃(せん)光に続き、山の向こうにわき上がる巨大な雲を見た。昭和天皇の「玉音放送」は褌(ふんどし)を取り替えて聞いた。仲間6人とカッターをこいで音戸の瀬戸を渡り、祖父がいた下蒲刈島で「広島はだめだ」と、あらためて告げられた。

 焼け跡にあった見覚えのある金歯から「そうだろう」と言い聞かせ、母よし子さん(40)の遺骨を納めた。父脩さん(43)と、市立造船工業(現・市商業高)1年の弟力さん(12)は分からずじまい。警察補助員をしていた父は、空襲警報のたび本川に面する派出所に出ていた。造船工業1年194人は、近くでの建物疎開作業に動員され全滅だった。

 「独りになったと言っても、自分だけがそうなったわけでないし、悲しむというより、あきらめですね」。淡々と胸の内を話した。

 遺骨を一緒に捜した伯母が養母となり、広島文理科大を卒業。戦後の米国留学の扉を開いたフルブライト奨学金で留学し、高校の定時制教諭を経て母校に戻った。広島大教授を退いた七年前からは、比治山大で専門の英語学を教える。

 自身の原爆体験を学生に語ることはない。「国内外問わず大勢の戦争犠牲者がいることを考えれば、原爆の被害だけをことさら口にするのは…。それに学生が関心を持とうとしません」。キャンパスで日々接する次世代の振る舞いに、戦争・原爆の惨禍が遠い出来事になっている今の時代を見る。

 広島市が毎年夏に公開する「原爆供養塔納骨名簿」に、父「高橋脩」と同じ読みの氏名が載る。ただ「脩」が「修」とある。「市に問い合わせてみましたが、どうも別人のようです」

 元高橋写真館の西側には、いまだ遺族が不明の849柱と、氏名が判明しないまま眠る約7万柱を納める原爆供養塔が建つ。高橋さんも参拝は欠かさない。

(1999年8月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ