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連載・特集

平和公園に眠る街 中島本町 <6> 

■編集委員 西本雅実

姉と妹 初めて一緒に立つ生家跡

 姉妹の生家は「中島本町46番地」にあった。広島市の被爆建造物レストハウスがある並び。日本髪のつけ髪や化粧品を扱い、屋号は「廿日市屋」といった。

 旧姓木原。東区に住む姉の磯部悦子さん(72)は「スズラン灯がともり夜は10時、11時まで店を開けていました」と、中島の盛時を知る。南区に住む妹の高松翠さん(66)になると「胡(えびす)講を別にすれば寂れていました」。誕生日で7つ違いが、街を取り巻いた様相の記憶を分ける。

 スズラン灯は昭和天皇の「御大典」を記念して1931年、鉄製アーチ形に改装されひときわ輝いていた。ところが日米開戦の1941年に軍へ金属供出され、消えてしまった。電飾に続いて中島では、住まいが建物疎開により立ち退きに遭う。

 国が広島市に実施を命じたのは1944年11月。対象は133カ所に及んだ。役所などの「重要施設」「堅ろう建物」の防衛や、消防道路の確保が狙いだった。「廿日市屋」があった元安橋西の区画も含まれた。

 長女の悦子さんが言う。「燃料会館を助けるためでした」。今、レストハウスとして観光客の休憩所となる鉄筋コンクリート3階建ては、広島県燃料配給統制組合などの国策会社が入っていた。一家は、住み慣れた中島本通りに近い慈仙寺鼻に移った。

 中島国民学校6年生になった二女の翠さんは4月、そこから広島県双三郡三良坂町の双三郡三良坂町の光善寺に学童疎開する。18歳の悦子さんは「8月6日」朝、舟入川口町(中区)にあった機械工場に出た。自宅には、父木原真一さん(48)と母政子さん(42)、弟の三男寛さん(4つ)、四男稔さん(1つ)の4人がいた。

 「家族の原爆死を詳しく聞いたのは、一緒に別府温泉へ旅行した昨年なんです」

 妹は、両親の遺骨を納めた姉とすら「あの日」を話題にするのを避けてきた。姉は「言いたくなかった」と、慈仙寺鼻で一夜を過ごした日を胸にしまい込んでいた。姉妹が原爆をありのままを語り合うには、半世紀を超す歳月がいった。

 悦子さんは、勤務先で被爆した後、水主町(中区加古町)にあった爆心900メートルの県庁までたどり着くと元安川に下り、川岸沿いにさかのぼった。慈仙寺鼻に架かる相生橋の付け根から上がったものの、それ以上は入れず、倒れていた人間の間にへたり込んだ。

 「恐ろしさより、放心状態。周りが燃えているわ、とじっと見ていたのですから」。西側の本川国民学校からは「おじいちゃん。助けて」と少女の悲鳴が聞こえ、四方からもうめき声がした。何時だったのか。だれだったのか。乾パンを渡されて食べた。うとうとするうちに日は明けていた。

 翠さんは、応召から戻った兄が9月末ごろ疎開先に迎えに来た。「当時のことは思い出せと言われてもはっきりしません」。原爆を乗り越えるため記憶を封印した。勤めた小学校の教壇でも体験は口にしなかった。

 「大切なのは身近な人たちの苦しみ、悲しみを理解し、命を認め合うことでは」。原爆を体験した者こそ立ち上がるべきだとする声高な「平和教育」や「平和運動」とは一線を画した。

 「懐かしさがないとは言いませんが、ここで時間を過ごしたいとは思いません」。妹の言葉に姉もうなずいた。二人そろって生家跡を、平和記念公園を訪れたのは初めてであった。

(2009年8月2日朝刊掲載)

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