×

連載・特集

平和公園に眠る街 中島本町 <7>

■編集委員 西本雅実

ふるさと広島 54年ぶり訪れる臨終の地

 「行こうとして行ってないんですわ」。日向正司さん(64)はこの夏、広島を訪ねるかどうか思案していた。

 古里である広島市の平和記念公園と、父が息絶えた廿日市市。「定年になる来年には墓をきちんとしたいと思っているんです。そのために父の遺骨がどうなったかを知りたいんです」。大和三山に抱かれる奈良県橿原市。自宅の窓からは、畝傍(うねび)山の濃い緑が陽光に輝く。

 10歳の夏、家族4人を原爆に奪われた。母と弟、妹の遺骨とともに父の兄弟がいた奈良へ。中学に上がるころ、子どものいなかった「日向」の養子になった。それまでの名前は「中山」と言った。

 「これしか手掛かりはないんです」と、広島から携え保存する1通の「死亡診断書」を広げた。父中山熊治郎さん(38)の名前が記される診断書にはこうあった。

 病名 全身火傷/発病ノ年月日 昭和二十年八月六日/死亡年月日 八月拾四日午後六時/死亡ノ場所 佐伯郡廿日市町四百八拾六番地ノ五廿日市臨時救護所/右證明診断検案候也 廿年八月拾五日 医師田邊薫吉(原文のまま)。

 熊治郎さんは、妻八重子さん(30)や二男稔さん(6つ)、長女美恵子さん(1つ)と本川橋東側の自宅で被爆した後、自力で3人の遺骨を納め、己斐(西区)の取引先に預けていたという。もともとは相生橋に近い慈仙寺鼻に住み、盆栽の卸しをしていた。

 「私が学童疎開していた折に『ほうねんや呉服』の綿貫さんの隣に移ったらしいんですわ。あれを御霊(みたま)の引き合わせというんやろなぁ…。その綿貫さんから、お袋らの最期の様子を知ったんです」

 39歳の夏。出張の途中に初めて立ち寄った平和記念公園で出くわした。問われて「中山です」と名乗ると、母は弟と妹を抱き締めて死んでいたと聞く。綿貫豊助さん(1987年死去)は、追悼法要を営む旧住民らでつくる「中島平和観音会」の世話人だった。

 「広島へ行かなかったのは、あれ以降も、行こうとしないのは…心の傷が消えてないんですな。原爆の後は周囲に気を遣い、寝る時だけが自分の時間でした。皆それぞれ苦労したんやろうなぁ…」。中島国民学校から県北の双三郡三良坂町の光善寺に疎開していた。爆心地となった中島本町と材木町に住まいがある児童約40人がいた。

 電報配達をしながら22歳で高校を卒業。32歳で大学を出た。大手レコード会社を役職定年で退き、第二の職場の定年が近い。「頑張ってもできなかったのが子ども」と冗談めかす。妻恵美子さん(67)と、「中山」の永代供養を考えているところに、「遺影は語る」への取材協力を求める手紙が届いたという。

 「記憶の底に押し込めていた」父の死亡診断書を開けてじっくり見ると、「廿日市臨時救護所」で死んでいたのに気づいた。

 「臨時救護所」は現在の廿日市小学校である。記者がそのことを伝えて2週間後、日向さんから「一度行ってみます」と電話があった。父の臨終の地を54年ぶりに訪ね、母と弟、妹が死んだ中島の「平和乃観音」像前で6日営まれる追悼法要にも参列する。「幼なじみにも会いたいし」。弾みをつけるように言った。

(1999年8月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ