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連載・特集

平和公園に眠る街 中島本町 <8>

■編集委員 西本雅実

原点に立ち 祈り礎に平和への誓い

 「観光の公園というか、きれいになり過ぎて被爆のよすががないですねぇ」

 広島市中区の浄土真宗浄宝寺の住職、諏訪了我さん(66)は、緑の芝生と石畳がまぶしい平和記念公園に、もの足りなさを覚える。被爆50周年を超えてからは、「行政に、原爆ドームと原爆資料館があれば十分との向きを感じる」。

 寺はかつて「中島本町69番地」、現在の原爆慰霊碑が立つ西側にあった。爆心300メートル。疎開先から通っていた住職の父令海さん(57)と母クニさん(56)、学徒動員に出ていた安芸高女4年の姉玲子さん(16)は「8月6日」に亡くなった。両親の遺骨はいまだ行方が知れない。

 中島国民学校6年だった諏訪さんは、広島県北の双三郡三良坂町の光善寺に学童疎開していた。約40人がいた。広島の惨状が伝わるにつれて一人、二人…寺の階段に座り込んだ。気がつくと、皆が南の空に向かって泣いていたという。

 墓石も倒れた寺跡に戻ったのは、1945年9月16日のこと。その翌日、同県内は死者・行方不明者2012人を出した枕崎台風に見舞われる。

 かつてない混乱の中、12歳の少年の双肩に、中島で約340年続いていた寺の再建が掛かった。本尊などは父が幸い疎開させていた。めどが立たなかったのは、爆心地に散らばる門徒の消息。「墓の数から言うと、150のうち30くらいが無縁仏になっていました」。原爆は生者にとどまらず、泉下に眠っていた者をも引き裂いた。

 やがて門徒総代の別棟に仮住まいして、島根県内から代務の住職を迎える。現在の大手町で、寺の落成法要を執り行ったのは原爆から8年後の1953年。ゆかりの地では公園建設のつち音が高まっていた。

 植えた樹木より雑草が目立つその公園に1956年、中島本町「平和乃観音」像が建つ。「生き残れる有志相集って…その霊を慰む」といわれを刻む。第1回から参列する諏訪さんは、3年間のブラジル開教師時代を除いて、追悼法要のつとめを続ける。

 「亡くなった人たちの思いを受け止める、偲(しの)ぶことがないと、平和への願い訴えは弱く、共感は得られないのではないでしょうか」。広島県をはじめ、各学校や企業で「8月6日」に営む慰霊祭が、遺族への案内を取りやめるなど、しりすぼみになっているのを憂う。  自ら「偲ぶこと」の行動に努める。公園内でレストハウスに使われる元「大正屋呉服店」など被爆建造物の保存運動にかかわり、市民に署名を呼び掛ける。

 「被爆のよすが、痕跡があってこそ、より命の痛みを感じることができるんです。例えば、この足元が土であれば原爆の熱さをかすかでも…」。石畳にきれいに覆われた寺跡に立ち、冒頭の感想が口をついた。

 2日後に控える広島市の平和記念式典。原爆慰霊碑が建立された1952年から、碑の前で営まれ、「原爆死没者名簿」を納めるようになる。これまで20万7045人が記載され、今年も4000人を超す原爆体験者が碑につらなる。

 諏訪さんは「広島がヒロシマたるのは被爆の原点だから」と言う。老いも子どもも焼き尽くした原爆、戦争の惨禍を引き起こさないよう世界を超えて祈り、誓いを新たにする。それが「8月6日」の原点である、と中島に生まれ育った諏訪さんは思う。

(1999年8月4日朝刊掲載)

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