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連載・特集

原爆を問う 2人の被爆科学者の軌跡 <3> 投下国へ

■記者 森田裕美

線量評価で米と溝 基準改定へ食い下がる

 肺結核で広島大工学部を2年間休学した葉佐井博巳は、回復すると大学に戻り、専攻科へ進む。1958年、原子核物理学研究室に助手として誘われたのが、物理学の道を歩む端緒となった。27歳だった。

 自分だけが助かった「負い目」を感じていた原爆と正面から相対するのは、さらに20年余り後のことだ。

 81年、米国へ研究留学した。広島、長崎原爆の開発拠点、米ニューメキシコ州ロスアラモス国立研究所へ。巨大な実験装置を操る米国人科学者たちは当然のように、核兵器に誇りを抱いていた。

 違和感を覚えた。「もう少し広島を知らなくては」と思い始めたころ、ちょうど現地で、広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)から派遣されていた星正治と出会った。

 被爆者が浴びた原爆の放射線量は当時、米ネバダ州での核実験データを基に推定していた。これを広島での実測値で再評価する作業を進める星が、葉佐井に声を掛けた。「一緒に測定しませんか」

 広島に戻ると、建物や橋の欄干、墓石、鳥居など2千点以上のサンプルを集め、原爆による残留放射線を測った。その途上の1986年、日米は合同で被爆者の新たな被曝(ひばく)線量推定方式「DS86」を策定した。

 しかし、米国主導の理論計算と葉佐井たちの実測値の間に誤差があった。爆心地から遠ざかるほど中性子線量が過小評価されているのではないか、疑問が残った。

 葉佐井たちはその後も測定精度の検証を続けた。国内の専門家で自主研究会も重ねた。

 被爆者が浴びた線量推定値は、放射線防護の国際基準の基礎でもある。やがて米国側は葉佐井や星らの研究を放置できなくなる。2001年、「DS86」を見直し、新基準「DS02」を策定するための日米合同実務研究者会議が発足。葉佐井は日本側の座長になり、その上級委のメンバーにもなった。

 DS86に風穴を開けた葉佐井はそれでもなお、米国との溝を感じた。「彼らは核兵器をつくる側。そのための資料がほしい。私たちは放射線被害の怖さが知りたい。そもそもの立ち位置が違った。議論がかみ合わないこともあった」

 例えば、米国側は遠距離被曝の影響を「ささいな問題」と切り捨てようとした。「私も被爆者だ。遠距離を無視できん」。葉佐井は食い下がった。

 沢田昭二はそのころ「長崎原爆松谷訴訟」にかかわっていた。長崎で被爆した原告が原爆症の認定を求め、88年から00年の最高裁勝訴まで闘った裁判。国側はDS86を基に、遠距離被爆の原告の疾病は原爆のせいだとは認めなかった。だが最高裁判決は、DS86には未解決な問題が残るとし、その適用を批判した。

 法廷に意見書を出すなどした沢田は、DS86の限界にあらためて気付き、葉佐井たちの自主研究会に参加を申し出る。原爆が再び、2人を結びつけた。

DS86
 1986年に日米が合同で策定した被曝(ひばく)線量推定方式。原爆の爆発の瞬間からおおむね1分以内に放出された初期放射線の総量と、被爆者がいた地点、遮へい物の有無などから、個々の被爆者が浴びた線量を推定する。精度を高めたDS02は2003年に承認された。

(2009年7月4日朝刊掲載)

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