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連載・特集

原爆を問う 2人の被爆科学者の軌跡 <5> E研

■記者 森田裕美

平和への責任感育つ 自由な気風 後輩が継承

 E研―。沢田昭二が在籍した名古屋大の坂田昌一研究室はそう呼ばれた。Eは素粒子理論(Elementary particle theory)の頭文字だ。

 そのE研出身者から昨年、2人のノーベル物理学賞受賞者が誕生した。京都大名誉教授の益川敏英と高エネルギー加速器研究機構名誉教授の小林誠。1966年に助教授としてE研に赴任した沢田は2人の先輩として指導に当たった。

 益川は昨年12月、スウェーデン・ストックホルムでの受賞記念講演で、自らの戦争体験に触れ、戦争反対の立場を明確にした。今年3月には、自ら呼び掛け人に名を連ねる「九条科学者の会」の講演で、沢田の被爆体験に触れて声を詰まらせた。

 その後も雑誌などの取材に対し、折に触れて沢田の体験を紹介。「(自分は平和活動の)先頭には立てないが、自分でできる協力をしたい」などと述べ、一人の市民として平和の問題や被爆体験に向き合う「科学者の責務」を訴えている。

 そんな益川の発言や行動に驚いているのは沢田自身だ。「被爆体験を彼に直接話したことはない。近くに下宿していたから、私の手記が載った雑誌を見たのでしょう」

 ノーベル賞の受賞後も祝賀会や同窓会で何度か顔を合わせたが、沢田はあえて理由を尋ねていない。「被爆体験を伝える重要さを彼はきちんと受け止めてくれている。彼は感受性も鋭いからね」。同時に、益川や自分を導いた「坂田先生の存在」を思う。

 素粒子理論の発展に貢献した坂田は戦時中の42年、京都大から名古屋大に移った。当時から、新しい時代の研究室づくりを模索していたとされる。戦後すぐ、自主的で民主的な共同研究体制をつくり、市民運動にも積極的に参加した。沢田や益川も手伝った。

 「院生が教員と対等に研究できた。立場を超えて一緒に日常生活を送った」。ロープを張って洗濯物を干した自分の研究室を坂田が訪れ、洗濯物をくぐって話しかけてくるのが日常の光景だったと、沢田は楽しそうに思い出す。「E研の自由な気風が益川と小林を育てた」

 沢田自身も、こうした坂田の流儀と気風を受け継いだ。87年制定の「名古屋大学平和憲章」がその象徴だ。沢田が大学の職員組合で副委員長をしていた時に提案し、起草委員会の事務局長を務めた。

 「大学の社会的責任を深く自覚し、平和の創造に貢献する」「国の内外を問わず、軍関係機関との共同研究を行わない」。大学の非軍事化宣言は国内初だったとされる。米国とソ連が中距離核戦力(INF)廃棄条約に調印した年。大国が核開発にしのぎを削った東西冷戦は終わりを告げようとしていた。

 「坂田先生の理念は今も息づいている」と沢田。口には出さないが自らも、後輩たちの平和への責任感を養ってきた。

素粒子理論
 物質を構成する最小の要素「素粒子」を研究する物理学の一分野。坂田昌一氏は、中性子や陽子などを基本粒子とする複合粒子模型(坂田モデル)を提唱し、その後のクォーク理論発展の基礎となった。

(2009年7月7日朝刊掲載)

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