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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <1> 隠した涙

■記者 水川恭輔

胸中吐露 今なら人前で 父の記憶 消えぬうちに

 被爆を生き延びたために、かえって体験を語りづらくなった人は少なくない。大切な人を救えなかった悔恨、口にしたところで元には戻らないとの諦観(ていかん)、行き場のない憤り…。それでも、わだかまりを乗り越え、記憶の封印を解き、「伝えなければ」と若い世代に向き合う人が増えてきた。原爆投下から64年目の夏。語り始めた証言者たちを追った。

 瀕死(ひんし)の父の姿はいつも胸に秘めてきた。話したら、5歳の自分に戻り、きっと涙がこぼれる。64年前、父にも隠した涙を誰にも見せたくなかった。

 福山市で暮らす広中正樹さん(69)。1945年8月6日朝、今の広島市西区己斐上にあった自宅近くの川で遊んでいた。突然、目の前がオレンジ色に染まり、爆風が襲いかかった。爆心地から約3.5キロ。すぐに母と、近くの防空壕(ごう)に逃げた。

 「黒い雨」が通り過ぎた夕方に帰宅。夜8時ごろ、傷ついた父が自力で戻ってきた。電車での出勤途上、爆心地近くの紙屋町(中区)付近で、熱線と窓ガラスの破片を浴びたという。

 ろうそくで照らすと頭から背中にひどいやけど。「背中のガラスを抜いてくれ」。だが破片は深く刺さり、どうにもならない。「ペンチでやってくれ」。震えながらペンチで挟み何度も引っ張った。でも、突き出た部分が割れるだけだった。

 翌7日夕。父は39年の生涯を閉じた。「ここに来なさい」。最期をみとるよう母に何度も呼ばれた。でも行けなかった。涙を見せるのは弱虫のように感じた。軒先の柱に頭を押し付け、泣き続けた。

 半月後、福山市の父の実家を頼った。そこも空襲被害を受けていた。翌年小学校に入り、物心がつくにつれ、父を奪い、まちを焼いた米国への憎しみが募りだす。

 被爆2年後の夏、駐留米兵の車に石を投げた。「何もかも奪い、威張っている」。車は止まり、米兵は発砲。畑に隠れ、恐怖に震えた。何もできない悔しさが残った。

 高校を卒業し、地元繊維メーカーに就職した。結婚して二人の男の子を授かり、高度成長期を懸命に生きた。「原爆について話す必要は感じなかった」。無念はいつしか、仕事への情熱に変わっていた。

 会社勤めの人生にひと区切りつけた1999年ごろ、戦後に人手に渡った広島の家が壊されたと知った。訪れてみると、父と一緒にいた当時をしのぶ風景は少なくなっていた。

2002年8月6日。福山市原爆被害者の会主催の原爆慰霊式に参列し、ふと思い立った。「記憶は年々薄れてしまう」。翌日からノートに文章と絵で「あの日」をつづった。

 お父さん、最期にそばにおらんでごめん―。自分が描いた父の絵に、60年近くこらえた涙があふれた。「この涙は恥ずかしくない。今の子どもに受け継いでほしい」。そう思って2005年8月、地元の中学校で初めて証言に立った。

 今年6月21日、尾道市の木ノ庄東小に招かれた。児童と保護者約100人に話した。「お父さん」と口にするだけで涙が出た。「人の命は地球より重い。この涙を忘れないで」と語りかけた。

 原爆投下から64年目の「父の日」だった。

(2009年7月23日朝刊掲載)

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