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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <2> 弟の証し

■記者 東海右佐衛門直柄

年を重ね「伝えたい」 最期みとれず自責の念

 滑らかだった口調が突然、乱れた。「その時、弟だと分かったんです」。肩の震えが止まらない。ハンカチで口元を覆う。「幸三ちゃんと呼んでも何の反応もないんです。背中をさすると、まだ温かくて」

 修学旅行で被爆地を訪れた高知県の児童約80人を前に、大畠良子さん(83)=広島市東区=が涙声を絞りだした。5月下旬、中区の市青少年センター会議室。あの夏から64年。大勢の前で証言するのは初めてだった。

 伝えたいことは手書きのメモ8枚にまとめてきた。20余年前まで教壇に立っていたから子どもたちの扱いにも慣れていた。緊張しなかった。

 それでも、語り初めて十数分で言葉が詰まった。変わり果てた弟と対面した場面で。

 あの日、いつものように市中心部の大手町(中区)にあった実家から、広島湾にほど近い宇品国民学校(南区の現宇品小)に出勤した。朝礼前の職員室で何げなく時計を見た瞬間、すさまじい爆発音がした。窓から巨大なきのこ雲が見えた。

 実家に向かう途中、川岸に遺体が折り重なっていた。黒焦げの赤ん坊を抱いた母親もいた。2日後、八本松町(東広島市)の親類宅で母や姉と再会。だが、雑魚場町(中区国泰寺町)で建物疎開作業をしていた弟の姿がなかった。旧制修道中の2年。15歳だった。

 3日かけて市内に通い、救護所を回り、やっと手掛かりを得た。観音村(佐伯区)の国民学校に母と姉と駆け付けたのは12日。講堂の外に1人、うつぶせに寝かされた裸の少年がいた。近づいても動かない。

 弟だ。  さっきまで息はあったのか、背中に触れると温かい。「ずっと待っとったんじゃね。ごめんね、ごめんね」

 1日前だったら、1時間早かったら、助けることができたかもしれない。弟の最期をみとれなかった自責の念は、自分が生き延びるほどに強まる。時間がたっても思い出すのはつらい。だから口を閉ざしてきた。

 でも、年を重ね、残りの人生を考えると、別の感情が芽生えてきたという。「無念な思いで亡くなった弟のことを伝えたい」「原爆の残酷さを若い人に知ってもらうことこそ、弟が生きた証し」。夫の肇さん(85)が、修学旅行生に証言する場を見つけてくれた。

 初の一歩を踏み出してみると、数人の児童が握手を求めて駆け寄り、列をつくってくれた。「戦争する大人になっちゃいけんよ」。念押しするように、手のひらに力を込めた。

 小柄だった弟と、同じ背丈に思える。その手のぬくもりが、語り伝える意味を教えてくれた。

(2009年7月24日朝刊掲載)

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