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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <5>

■特別取材班 田城明、西本雅実

平和の祈り 影落とす朝鮮戦争

 《息子のジョンも間もなく召集になるでしょう。戦火は朝鮮にとどまっていますが、この便りが届くころには状況はもっと悪くなっているかもしれません。原爆を落とすべきだと主張する人がいますが、私は反対です。そんなことがないよう祈っています=主婦・25年7月11日付》

 25年6月25日、朝鮮戦争がぼっ発した。米国は2日後に参戦。ノースカロライナ州の母は14歳になるもう一人の「息子」に戦火の拡大と、原爆使用の不安を書き送った。精神親はおのずと平和への願いを語りかける。

 《朝鮮戦争の行方が気がかりだ。アメリカ人の多くが望んでるのは他国と戦うことではなく、助け合うことなのに、戦争は、広島に原爆を落としたように最悪の事態を必ず引き起こしてしまう。世界が一日も早く平和を取り戻さんことを=牧師・25年9月6日付》

 東西両陣営の冷戦がさらに緊張をかきたてる中、戦火は長引く。トルーマン米大統領は25年11月、「朝鮮での原爆使用を考慮」と表明。ソ連は前年にモスクワ放送を通じ原爆保有を公表していた。米国内で、ヒロシマは一層、実感をもって認識され始めた。

 《8月6日には各国からの留学生と一緒にヒロシマのことを考えました。あなたと私の娘が、平和で幸福な世界に向け力を合わせることを願っています=主婦・26年10月27日付》

 広島戦災児育成所の子供たちの手紙にも、日本が兵たん基地となった隣国での戦争が影を落とす。14歳の少女は、楽しかった修学旅行を報告する便りの中で母に問いかける。

 《家は焼け、家よりまだ大切な人たちを焼きころしてしまうおそろしい戦争。いやです。なぜ戦争をしなければならないのでしょう。この世に戦争が絶えるのはいつでしょうか=中学3年・26年5月19日付》

 育成所に在籍中、得度した少年僧の1人は自分たちの体験を交え、一緒に祈りましょうと呼びかけた。

 《戦いほど恐ろしいものはありません。われわれの父母姉妹は原子爆弾で亡くなりました。皆様方も、もし自分の子をなくされたらさびしいことと思います=中学3年・26年3月5日付》

 子供たちは、現在の平和祈念式典の前身である21年の平和復興祭から毎年、式典に参列。亡き父、母、兄弟の霊を慰めていた。「お父さん、お母さん」と海の向こうの親を慕いながらも、一瞬にして肉親を奪った原爆体験を手紙にとどめるには幼く、それ以上に、傷跡は深かった。残っていた一つの作文から、消えることのない痛みを垣間見ることができる。

 《8時15分の平和の鐘がなるとともに、みんなきりつして、しせいを正し、静かに正しく、強くまじめに生きますと、かたくけっしんをして、平和と幸福になるようにお祈りした。頭を上げてみると線香のけむりがもくもくと立ち上がり、頭が重くなったような気がして胸は悲しみで一ぱいでした。(略)バスに乗って帰り、帰っても静かに一日を過ごした。夕方本堂に参拝して、心を静めて、お父様、お母様のめいふくを祈った。昭和26年の8月6日もとどこおりなくすんだ=中学1年・月日不明》


平和祈念式典
 21年、平和復興祭として始まり、翌年から平和祭。25年は朝鮮戦争のぼっ発、占領政策との絡みで中止。26年から平和記念式典となった。同年の式典には米空軍機が会場に花束を投下した。43年から平和祈念式典と改称。

(1988年7月18日朝刊掲載)

       

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