×

連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <6>

■特別取材班 田城明、西本雅実

独り立ち 中学卒業の岐路に

 《9月8日は日本にとっては大変大事な記念すべき日です。今までアメリカの援助により立派にいっていましたが、こんどは日本も立派に独立国としていかねばなりません。そして、世界の人となか良く手をつないでいかねばなりません。僕たちも気持ちをいれかえ、希望に燃えて一生懸命、前途に向かって進んで行かねばなりません=中学2年・26年9月13日付》

 広島戦災児育成所にいた13歳の少年は、戦後日本の新たな出発に自らの独り立ちへの心構えを重ね合わせ、少し気負ってこう書いた。26年9月8日(日本時間9日)、対日平和条約がサンフランシスコで、日本と米、英など49カ国の間で調印された。別の少年も母に決意を伝える。

 《今からは日本も一人で立っていかなくてはなりません。僕も何をするのにも自発的にしようと思います。お母さんに英語でお手紙が書けるようになろうと努力しています=中学2年・27年5月19日付》

 《調印式の模様をテレビで見て、とても感銘を覚えました。日米両国はこれからは、ハッピーな世界建設に協力して行きましょう。あなたがこちらを訪れ、もっとアメリカを知ると同時に、私たちもあなたに会いに日本へ行きたいわ=主婦・27年2月10日付》

 日米関係の正常化は、精神養子の親子関係にも転機をもたらそうとしていた。27年6月、米国での「移民及び国籍法」の制定で、日本人の米国への移民・帰化が、条件付きながら可能になったのである。精神養子運動の提唱の際に掲げられた法的な養子縁組が具体的な響きを持ってくる。ある未亡人は、弾む調子でペンを走らせた。

 《私のたった一人の息子よ。日米永遠の友情のあかしであるポトマック河畔(注=ワシントン市)の桜を愛する私は、あなたがアメリカに来ることができるよう精いっぱい努力したい=27年6月6日付》

 精神養子をあっせんしていた米国ヒロシマ・ピース・センター協力会も当初の計画に従い、精神親に改めて子供の引き取りを働きかけた。しかし、親にもそれぞれの事情があった。育成所長であった故山下禎子さんあての手紙-。

 《最近、協力会から子供をこちらで育てるようにとの連絡がありました。私は76歳で心臓病で伏せっています。夫は84歳。ともに若ければと残念でなりません。しかし、息子は高校までは行かせてやりたいと願っています。それだけのお金は送りたいと考えていす。=27年11月13日付》

 精神養子の多くは20年8月当時、農村へ集団疎開していた小学校3年以上の児童。占領期が終わりを告げるころには、育成所にいた子供たちも中学卒業という大きな岐路に立っていた。

 《学校生活はいかがですか。将来は何をしようと考えていますか。大学まで行くつもりですか。あなたがもう心を決めているか教えて下さい。スポーツ、勉強に全身でぶつかりなさい。そうすることが将来必ず役立ちますよ=神父・26年11月13日付》

 中学卒業を控えた息子は父からの励ましをどう受け止めたのだろうか。「15の春」に、高校進学のチャンスをつかんだ一部の子供を除いて、彼らはいや応なく自立への道を独り、歩み始めた。


集団疎開児童
 広島市内の各国民学校は20年4月から7月末にかけ、広島県内の佐伯、山県、高田など7つの郡の寺院や集会所に集団疎開した。疎開児童数は8,365人にも上った。(「広島原爆戦災誌」第4巻)

(1988年7月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ