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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <8>

■特別取材班 田城明、西本雅実

きずな 「心と心」交流深く

 30年代に入ると、精神養子運動は急速に下火になる。広島市戦災児育成所も35年には市「童心園」と改称。入所児童も原爆孤児より欠損家庭の子供の方が多くなった。精神養子はわずか6人に減り、いずれもすでに施設を出ていた。母から届いたクリスマスプレゼントへの礼状が、成長した子供たちの様子を伝える。

 《毎年1回、お正月2日の日には育成所を巣立った人たちが集まります。でも、遠くの県へ行かれた人はあまり見えません。仕事の関係や家庭を持たれたりした人は、容易に出られないのでしょう。私なども近くにいながらも、なかなか育成所へ行けません=店員・35年1月15日付》

 運動の米国側の窓口、米国ヒロシマ・ピース・センター協力会が集めていた養育資金も滞りがちとなる。精神親も31年には全体で124人。子供の成長につれ、親の関心も薄らいでいった。協力会は34年4月、養育資金の送付中止を表明。25年に始まった精神養子運動は事実上幕を閉じた。

 《おば様、今日学生生活を送れますのは、あの灰色の病床生活に、変わらず海のかなたから激励して下さいましたたまものです。本当にどれほど勇気づけられたか分かりません。学校では募金して、へき地を訪問したり、スラム街を調査したり…。生活に張りが出て来ました。生きているのが楽しいって感じです=大学1年・34年9月1日付》

 結核で2年半もの闘病生活を強いられ、やっとつかんだ大学進学。精神親であった女性に今の喜びを伝えた青年のように、育成所の子供たちは周囲に支えられながらも、自分の力で「原爆孤児」の運命を乗り越え、人生を切り開いた。そんな中で少数ながら、単なる精神「親」と「子」にとどまらず、互いに人間としての絆(きずな)を深めていった親子もある。

 《戦争のため、私たちは物心両面を失いました。人の心の裏を見せつけられた中で、精神親であった父と出会いました。私の成長を見守り、ヒューマニズムを教えて下さいました。私の喜びと悲しみは父との長い文通の中に秘められています》

 《原爆による私の悲しみは人の心の温かさで溶け去りました。過去に復しゅうしようとは思いません。あなた方のヒロシマに対する運動も、原爆投下を悔いないと言う米人飛行士の考えも理解できます。しかし、両親との最も幸福であるべき幼年時代をなぜ台無しにされねばならなかったのでしょう》

 《世界平和への道は、すべては私たちのこれからの行動にかかっています。廃虚の中から美しい花を咲かせたいと切に望んでいます。私の話は、あなた方に涙を流してもらうためではなく、平和を打ち立てる勇気を願うものなのです=36年10月》

 1人の青年は牧師だった精神親の死去の報に、自ら英語で長文の手紙をしたため、父の霊前にささげた。「感謝と希望を込めて」と題したこの手紙は教会の手で小冊子となる。かつての青年は冊子と形見分けとなった父の著書を今も大事に持つ。著者の表題には「私は人間を信じる」とある。


ヒロシマ・ピース・センター協力会
24年、発足。原爆乙女の渡米治療にも尽力した。精神養子運動では縁組あっせん、養育資金の集金・送金を担った。養育資金打ち切りの後は教育資金制度を設け、35,36年と大学進学者を対象に資金援助した。

(1988年7月21日朝刊掲載)

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