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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <3> わがまま

■記者 水川恭輔

母らと外出 突然の地獄 「悔やみたくない」口開く

 朝夕、家族の遺影に手を合わせ、許しを請う。「わがままを言ったから」。一緒に乗った路面電車内の光景が、ぬぐい去れない悔恨とともによみがえる。

 64年前、松本政夫さん(75)=広島市安佐北区=の実家は舟入町(中区)にあった。だが松本さんは一人、可部町(安佐北区)の祖父宅に疎開し、可部国民学校に通っていた。11歳の少年にとって、家族と離ればなれの暮らしはつらい。8月4日、舟入町の実家に帰って頼み込んだ。「一緒にいたいよう」。母は納得してくれた。

 6日早朝、祖父宅に説明に出向くため、母は松本さんら3人の子どもを連れて自宅近くの電停から電車に乗り込んだ。妹は、よそ行きのピンクのワンピース。母の背に負われた弟をあやしていた。

 午前8時15分。爆心地の西約700メートルで突然、満員の車両は闇に包まれる。周囲の建物は倒壊し、火炎地獄が襲ってきた。

 太田川沿いを北に逃げ、たどりついた親類宅。顔面やけどの妹は被爆から9日後に、頭から血を流した弟はその2日後に死んだ。二つの遺体を抱き続けた母もほどなく、「大切な子を亡くした。申し訳ないとお父さんに伝えて」と言い残して34年の生涯を閉じた。

 「わしも一緒に死ぬる」。泣き叫んだ。両足のやけどがひどく、「この子もだめじゃ」と言う声が聞こえた。それでも4カ月の療養で一命を取り留めた。

 中学を卒業し、鋳物の木型工場で修業。25歳で独立した。思い出したくない、結婚や仕事上で差別されたくないと、自身の被爆には沈黙を守った。

 でも家族にわびる気持ちは消えない。40歳だった1975年、NHK広島放送局が公募した「原爆の絵」に応じた。唇をかみしめながら筆を執り、火の海を逃げまどう母や妹を描いた。

 それから30余年。ひょんなきっかけが、重い口を開かせる。

 2007年、松本さんのかかりつけ医師が原爆資料館に展示された絵を偶然見て、被爆証言を依頼してきたのだった。とっさに松本さんは断ろうとした。だが、母たちの姿が脳裏に浮かんだという。「家族を壊す原爆を繰り返してはならない。いま話さないで、後で悔やみたくはない」。約30人の前で初めて語った。

 中国の戦地に赴いていた父は終戦の2年後、遺髪で戻ってきた。その父の写真と、あの電車に乗った3人の遺影が、自宅の壁に並んで掛かる。

 「なんで一人だけ生き残ったんかな。伝えるためかな」。6月末、遺影に1冊の本を供えた。若手の看護師や作業療法士が、松本さんら被爆者8人の証言を聞き取ってまとめた体験記だ。表紙に、松本さんの原爆の絵が印刷されている。

(2009年7月25日朝刊掲載)

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