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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <4> 手紙

■記者 東海右佐衛門直柄

娘だけには話せぬ 「死後に」辛苦つづる

 あの夏のことは娘にも話していない。つらい戦後だった。「命を絶てば楽になれる」。そう思った日もある。

 広島市北部に暮らす女性(80)は、原爆の爆心地から1・7キロの白島九軒町(中区)の自宅台所にいた。ドーンと衝撃音、オレンジ色の光。母親と必死に逃げた。市内に勤めていた父と落ち合い、河原で一晩を明かした。負傷者が次々と「苦しい」「お母さん」とうめく。朝には何人も冷たくなっていた。

 弟の行方が分からなかった。旧制広島市立中の1年生。建物疎開作業のため、小網町(中区)にいたはずだ。

 数日後。身を寄せていた知人宅に、父は数かけらの小さな骨を持ち帰った。学校で弟の死が確認されたのだという。軽い骨だった。「誰のものか分からん」。父はうめいた。

 間もなく広島県北部に移り住むと、「ピカの毒に遭った娘」と陰で言われた。周囲の無理解がやるせなかった。原因不明の高熱が続き、大量の鼻血が出たときも、母から「結婚に差し障る」と口止めされた。

 親同士が決めた縁談がまとまりかけていた。「原爆で体も弱くなりました。結婚できません」と人を介して断った。恋とは言えない淡い思い。でも、幸せが遠のいた気がした。

 数年後、別の男性と見合い結婚し、一人娘を授かった。後に離婚し、訪問販売業で生計を立てた。きれいな洋服を娘に着せたかった。みじめな経験はさせたくなかった。

 やがて娘は結婚し、孫も生まれた。やっと平穏な暮らしだと思ったある日、のどに違和感を覚えた。がんだった。3年ほど前、手術を受けた。

 「長く生きられないかもしれない」。病床で自分の人生に向き合うと、心の奥にしまいこんだ記憶がよみがえってきた。会えなかった弟、河原で息絶えた人々、遺体を焼くにおい…。「自分は生かされてきた」。犠牲者の無念と戦争のむごさを語り継ぐことが残りの人生の務めだと、自然に思えてきたという。

 そうして昨年春から証言活動を始めた。つらい記憶を口にすると、その夜はなかなか寝付けない。のどが渇くと、がん再発の不安もよぎる。それでも、いつまで証言できるか分からないと、修学旅行の児童や生徒の前に立つときは自分の名前を明かし、毎回、心を込めて語る。

 しかし、あの日のことを娘に話すふんぎりは、まだつかない。自分が死んだ後に伝えようと、体験を手紙に書き、しまい込んだ。

 時折、弟たちが閃光(せんこう)を浴びた場所に近い市立中の慰霊碑に向き合う。遺骨も分からない残酷な犠牲者が二度と出ないよう、ひたすら手を合わせる。

(2009年7月27日朝刊掲載)

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