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連載・特集

ヒロシマを撮る 5人の軌跡 <1> 大石芳野さん

■記者 西村文

一瞬の笑み 心に迫る 戦地の子らにまなざし

 64年―。被爆者にとって長い時間が流れた。レンズを通してその心に迫り、ヒロシマを自己表現の原点としてきた写真家にも。ヒロシマと向き合ってきた写真家たちは今、何を思い、どんな表現を続けているのか。5人の軌跡を追う。

 「おじいちゃんが、咲かせてくれたのかしらね」。窓際に飾られたランの鉢植えに、笑顔でカメラを向けた。広島市中区中町の喫茶店「アベニュー柳屋」。「大石さんとは17年のつきあい。もう、家族の一員です」と、店主の槻山(つきやま)栄さん(71)、妙子さん(70)夫妻。ランの鉢は数年前、栄さんの父、栄一さん(昨年、105歳で死去)の見舞いに大石さんが贈ったものだ。

 槻山さん一家の写真も掲載された「HIROSHIMA 半世紀の肖像―やすらぎを求める日々」(1995年、角川書店)。出版までの11年間、広島に通って被爆者を訪ね歩き、約80人の肖像を掲載した。

 写真集冒頭の肖像は、大石さんが「ヒロシマのおかあさん」と呼ぶ清水ツルコさん。73~83歳の姿を撮影した。原爆で全身に大やけどを負い、夫は戦死。戦後は不自由な手で裁縫をこなし、子どもや弟妹を養ってきた。深いしわが刻まれた横顔。写真には凛(りん)とした笑みが浮かぶ。

 「その人の一番美しい表情を、と思って、レンズを向けてきた」。口紅を引く女性の顔のアップをとらえた一枚も。ほおにはケロイドが残る。手には唇しか写らない、小さな小さな鏡―。「同じ女性として、痛いほど気持ちがわかる。傷を隠すことが美しく撮ることではない。写真で伝えたいのは、その人の心」。白黒フィルムで被写体にストレートに迫るのも、被爆者の「心」を際立たせるためという。

 学生時代に訪れたベトナムで戦時下に生きる人々と出会い、報道写真家になる決意をした。66年、大学を卒業したが、就職口はなかった。「女が写真を撮るなんて…」という時代。フリーカメラマンになるしか道はなかった。

 カンボジア、コソボ、アフガニスタン、ラオス…。フリーとして「真実を知りたい」という自らの思いを追求し、広島や沖縄など国内はもとより、世界中の戦争・紛争地域を取材してきた。自然とカメラが向いたのは、傷ついた女性や子どもの姿。過酷な生活の中で一瞬、輝く笑顔―。どんな悲惨な写真よりも、見る者の胸を締め付ける。「戦争は『調印』によって終わっても、生き残った人々にとっては終わらない。広島もそう。64年たった今も、被爆者の心は変わらない」

 「HIROSHIMA」出版後も、海外取材や大学で教壇に立つ合間を縫って年数回、広島に通い続けてきた。「広島は私と地続き。同じ時代を生き、私を受け入れてくれた人々がいる」

 学生時代、土門拳の「ヒロシマ」を見て「私にはとても撮れない」と思った。20年近いキャリアを積んだ後、「写真家として、撮らなければならない」と決意。年齢を重ねる被爆者一人一人の心に寄り添い、逆に励まされ、ヒロシマの「今」を撮り続けてきた。

 近年、被写体となった人たちが相次いで死去。被爆体験の急激な風化を憂う。一方で、平和記念式典に若者や外国人の姿が増えていることに「希望を感じる」とも。間もなく巡ってくる8月6日。今年も、広島の「今」にカメラを向ける。

 おおいし・よしの
東京都生まれ。日本大芸術学部写真学科卒後、フリーの写真家に。写真集に「ベトナム 凜と」(第20回土門拳賞受賞)「アフガニスタン 戦禍を生きぬく」「子ども 戦世のなかで」など。2007年に紫綬褒章受章。65歳。東京都目黒区在住。

(2009年7月28日朝刊掲載)

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