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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <6> 肖像画

■記者 水川恭輔

平和の願い にじむ表情 院生の熱意で心開く

 足にけがはした。けれども「もっと悲惨な目に遭った人がたくさんいる」。原爆を語るのはおこがましいと思ってきた。4人の孫にもまだ話していない。

 広島市中区の木村美代子さん(79)。広島県立第一高等女学校4年生だった64年前、希望通りに第二総軍司令部への動員が決まった。司令部は広島駅北の東練兵場近くにあり、初仕事は8月7日のはずだった。

 休みで三篠町(西区)の自宅にいた前日午前8時15分。ピカッと光り、ドンと鳴ると「家が45度くらい傾いた」。窓際にいてガラスの破片で足にけがをした。爆心地から2.5キロ。通りがかった兵士に手を引かれ、家族と知人宅に逃げた。

 数日後、倒壊や焼失は免れた自宅に戻り、家を失ったり、けがをしたりした近所の人と寝泊まりした。爆心地近くで両親と家を失った同級生が妹と一緒に助けを求めてきたときには、もういっぱい。断るしかなかった。ほかの同級生も心配だったが、足が痛くて外に出られなかった。

 秋、郊外の臨時校舎で授業が再開すると、爆心地から約600メートル、当時の下中町(現中区中町)にあった学びやの悲劇を知った。看護実習生として学校にいた約50人の同級生はほぼ即死-。

 「話しても何も戻ってこない」。ほかの動員場所などにいて難を逃れた同級生と、「ピカ」を話題にすることはなかった。

 卒業後、広島女子専門学校(現県立広島大)に2年通い、結婚した。1男1女を授かり、平和記念公園に近い住吉町(中区)で家庭づくりに専念した。ただ、短い生涯を閉じた級友たちのことは忘れなかった。せめてもの償いにと、原爆の日の式典参列は続けた。

 2006年。「ピカに遭(お)うたのがおらんのよ」。10年近く一緒に式典に参列してきた近所の番匠久代さん(90)からそう聞いた。市立大芸術学部の学生たちが取り組む「被爆者の肖像画」のモデルがほかに見つからないという。

 町内の被爆者が年々減っていることは木村さんも気がかりだった。「モデルだけなら」と安佐南区のキャンパスを訪れた。大学院生が30枚近く、さまざまな表情の写真を撮った。

 さらに若者たちは「被爆者が今、何を感じ、どう生きているのか現実を描きたい」と懸命に質問してくる。熱意にほだされ、やがて口を開いた。「原爆も戦争も、二度とあってほしくない。それがすべて」。訴えたかったことが、やっと言えた気がした。

 2年後、絵の載った図録が届いた。窓越しに遠くの空を見つめる自分の姿に、それまで自身もさほど意識していなかった「平和への願い」を強く感じた。問われたら語りたい-。図録はそっと本棚に置き、孫たちが開く日を待っている。

(2009年7月29日朝刊掲載)

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