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連載・特集

ヒロシマを撮る 5人の軌跡 <2> 江成常夫さん 

■記者 伊東雅之

街の日常に証言重ねる 追い続ける昭和の戦争

 目を閉じた穏やかな顔に、深く刻まれた記憶がにじむ。背景もポーズもないモノクロのポートレート。今年、あらためて撮り始めた「ヒロシマ」だ。

 来年、ヒロシマを撮り始めて四半世紀になる。「当初は、被爆の痕跡が見えにくくなったヒロシマを視覚化し、メッセージにしようと試みた。その後、被爆者一人一人を写真に収めることも将来への大きなメッセージになると思うようになった」

 被写体は、1985年から始めた前回の撮影で被爆証言を聞かせてくれた人たち。「当時出会った約50人のうち、既に半数が亡くなったり、連絡が取れなくなっていた。ただ連絡が取れた人はほとんどが、申し入れに応じてくれた。思いをくんでもらえて、ありがたい」

 以前の撮影では15年間、広島に通い続けた。2002年、写真集「ヒロシマ万象」(新潮社)を世に出した。

 木立の間から差し込む強烈な太陽、川面に光る波の屈折、道端に落ちた花、夕焼けにたたずむ原爆ドーム…。普段、目にする広島市内の日常を切り取ったいずれの写真も、何かを語りかけるような気配を帯びる。

 ヒロシマを撮り始めたのは被爆から40年が経過してから。ただ、思いは、写真家を志した大学時代にさかのぼる。原点は、土門拳の「ヒロシマ」(58年)。被爆の痕跡が生々しく残る時代に、原爆で傷ついた人々を通し、被爆の実態に迫ったドキュメンタリー的手法に強い衝撃を受けた。目指す写真家像が定まった。

 大手新聞社の写真部を経て37歳でフリーに。だが、ヒロシマへの足取りは重かった。「被爆の重さを考えると、軽々しくカメラを向けられなかった」

 まず、戦後の貧しい時代に米国軍人と日本を後にした戦争花嫁を取材。その後、中国東北部の「満州国」で生まれ、その崩壊過程で大陸に残された日本人孤児らの取材に精魂を傾けた。祖国から忘れられた日本人に目を向け、日本が犯した過去の罪を写真で問うた。

 満州事変に始まる十五年戦争。それとは無縁ではないヒロシマ。「これまでの取り組みを『免罪符』に向き合わせてもらおう」と心を整理した。

 表面的には、被爆の痕跡が少なくなった街。「どうカメラで表現すればいいのか」。悩みながら被爆者を訪ね歩いた。そこで聞く体験談は想像を絶する残酷さや無念さ、深い悲しみがにじんでいた。

 歳月を経ても一人一人の脳裏に鮮明に焼き付く記憶。「人々の肉体は消滅しても魂は生き続ける」。証言で得たイメージを、40年後の広島の風景に重ね合わせながら撮影を始めた。途中、生死にかかわる病気に見舞われながらも、どうにか撮り終えた。

 「年を取っても、大病にかかっても、自然に足が向くんです。昭和の戦争の現場に」。ガダルカナル、レイテ、サイパン、硫黄島など南洋群島、沖縄、長崎、そして2度目のヒロシマ。

 「罪業は忘却から始まる。次の世代への語り部の役目が少しでもできれば」。今回の撮影は来年いっぱい充てる予定だ。満州事変から80年、太平洋戦争開戦から70年に当たる2011年に、追い続けた「昭和」を一堂に展示する写真展を考えている。

えなり・つねお
 神奈川県相模原市生まれ。東京経済大卒。毎日新聞社を経てフリーに。1994年から九州産業大大学院芸術研究科教授。81年、木村伊兵衛賞、85年、土門拳賞を受賞。2002年、紫綬褒章受章。著作に「記憶の光景・十人のヒロシマ」「まぼろし国・満州」(新潮社)、「花嫁のアメリカ」(講談社)など。72歳。神奈川県相模原市在住。

(2009年7月29日朝刊掲載)

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