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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <7> 胎内で

■記者 水川恭輔

母の体験「私が伝える」 航海で芽生えた使命感

 幼いころ、8月6日は毎年のように平和記念式典に参列した。一緒にいた母が、死没者名簿の入った原爆慰霊碑にすがりついて泣いたこともある。「つらいことがあったんだ」。自分も被爆者とは夢にも思わなかった。

 広島市佐伯区の竹内貴美子さん(63)は原爆投下翌年の1946年5月25日生まれ。母は広島県五日市町(佐伯区)で多数の被爆者を介抱した「救護被爆者」だ。「誕生日が5月末までなら被爆者よ」。35歳の時、自分が「胎内被爆者」だと友人から教わった。

 被爆者健康手帳を取得した。自分を宿したばかりの母が何を見て何を感じたのか知りたくなった。ちょうど小学2年の次女の夏休みの宿題が、家族の被爆状況の聞き取りだった。

 「つらくて思い出したくないから、ごめんね」。母はいったん断った。でも2、3日後に「誰にも話さずには死ねない」と重い口を開いた。長女と次女と一緒に、母の体験を初めて聞いた。

 「私が引き留めておけば…」。母が声を震わせたのは、7歳年上の姉の最期だった。原爆の日の前夜、玖波町(大竹市)に住んでいた姉が五日市町の家に泊まりに来た。翌朝、町内会の勤労奉仕で爆心地近くでの建物疎開作業に出かけ、全身を焼かれ、被爆死した。

 1999年に83歳で生涯を閉じた母が、体験を再び口にすることはなかった。しかし亡くなる5年前の8月6日、こう日記に書いていた。「優しい姉さんの顔を思い出し、涙が出る。生きていたら孫に囲まれ、幸せになっているだろうね」

 2001年、竹内さんは非政府組織(NGO)ピースボート主催の世界一周の船旅に参加した。出発2日後に米中枢同時テロ。地中海ではアフガニスタン空爆に向かう米空母と遭遇した。船上の若者たちは抗議の横断幕を作り始めた。

 しばらく遠目に見ていると、見慣れた原爆ドームの絵が描かれている。「ヒロシマの私が声を上げないでどうするの」。初めて芽生えた感情だった。平和の願いが書き込まれた横断幕を手に、寄港したスペイン・バルセロナで約100人と歩いた。

 旅を終え、横断幕を「ぜひ広島に」と託されたものの、体験のない自分に何ができるのか迷った。同じNGOが2008年、被爆者約100人を乗せた世界一周航海を企画。今度は母の日記と横断幕を携えて乗船した。参加被爆者では最年少だった。

 あの日を絵本にして伝える人、被爆後の苦しみや結婚差別について話す人…。みな、自分のやり方で伝えていた。竹内さんも横断幕を船上に飾り、母の日記を紹介した。少し自信がついた気がした。

 今年4月、地元の小学校で平和学習の講師を初めて引き受けた。「体験がなくても自分なりに学び、伝えていこう」。子どもたちにそう呼び掛けた。自分に言い聞かせる言葉でもあった。

(2009年7月30日朝刊掲載)

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