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連載・特集

語り始める 語り継ぐ ’09夏 <8> 友よ

■記者 水川恭輔

亡き君とつづるブログ 人前でも証言「今こそ」

 核兵器をめぐる世界情勢と自身の思いをブログにつづる。「友よ、核廃絶が世界の潮流になろうとする折、北朝鮮は核実験の暴挙に出た」。あの日、同じ学びやで命を落とした同級生にも伝えるつもりで、必ず「友よ」から書き出す。

 広島市南区の兒玉光雄さん(76)は64年前、雑魚場町(中区国泰寺町)の県立広島一中1年。8月6日朝、教室から「黄金の火柱のような光」を見た。気付くと倒壊した校舎の下。爆心地から約800メートル南だった。

 屋根をへし折って外に出た。下敷きの同級生を引っ張りだした。「助けて」。席が近かった友人が、はりに足を挟まれていた。でもなかなか抜けない。

 助けを求め、大勢の人の気配がするプールに向かった。しかし、真っ赤なやけどの負傷者ばかり。戻ろうとすると止められた。校舎にはもう火が回っていた。「許してくれ」。涙を流して逃げた。

 けがはなかった。でも、歯茎の出血や脱毛などの急性症状に見舞われた。学校の校舎内や近くで被爆した1年生約300人のうち、翌年まで生き残れたのは計19人だった。

 「歯を食いしばってでも生きる」。戦後の食糧難の体験から農業に興味を持った。広島大で畜産を学び、県内の牧場で働いた。後に東京の会社に転職し不動産事業に携わる。仕事に励み、被爆体験は脳裏にしまい込んだ。

 58歳の時、転勤で広島市内に戻った。60歳で直腸がんが見つかり、入院、手術。「のんびり過ごすか」。妻と相談して退職した。

 3年後、今度は胃がんと診断された。さらに2年後、こめかみに皮膚がん、その翌年は右肩と背中に皮膚がん…。手術を繰り返した。

 おかしい。「原爆か」。担当の医師はうなずいた。1993~2006年に計14回のがん手術をした。

 2005年。生き残った同級生の戦後の足跡を調べ始めた。自身の手術歴や被爆体験と一緒にホームページ(HP)に載せ、原爆による放射線の影響の恐ろしさを伝えようと思った。

 原爆の炎をかいくぐった19人のうち、半数以上ががんを患い、2006年12月までに13人が生涯を閉じていた。原爆資料館の元館長、被爆者医療にかかわった医師、被爆証言を続けた元教員もいる。

 「証言できる被爆者が年々減っている」。HPの開設時に協力してもらった原爆資料館の職員から昨年、証言活動を勧められた。あの日を背負い、生き抜いた友のため、「今こそ語ろう」と決意した。

 広島大のサークルの依頼で8月5日、初めて人前で証言する。その決意と緊張感を、こうブログにつづった。「継承のために被爆証言をやり遂げるつもりです。友を思えば、背負う荷がどんなに重くても耐える覚悟はできています」―。

 自分や家族、知人の被爆体験を伝えたい、残したい人は中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターにご連絡ください。Tel082(236)2801。

(2009年7月31日朝刊掲載)

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