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連載・特集

ヒロシマを撮る 5人の軌跡 <4> 細江英公さん

■記者 田原直樹

核の脅威 想像力に訴え 「罪深い世紀」切り取る

 上空から見た平和記念公園。芝生が広がり、原爆資料館や人の姿がある。穏やかな祈りの場をとらえながら、言いようのない不安を覚える一枚。慰霊碑そばを、黒い機影が這(は)っている。

 「たまたま下をのぞくと、パッと目に入ったんだよ。ウワッと驚いて一発。1枚だけ撮れた」

 1967年夏、東京から乗ってきたプロペラ機YS11。着陸前、広島上空を旋回中、公園に影を落とした。「瞬間、またB29が来たような錯覚があってね」。持っていたカメラを向けた。

 あの日の悪夢を思わせる不吉な影。それは、被爆地の願いとは裏腹に、核の開発や拡散が進み、ヒロシマが繰り返されはしないかという危惧(きぐ)を投影してもいる。1970年に発表。一昨年刊行の作品集「死の灰」(窓社)にも再び収録した。

 人類史上、20世紀は最も罪深い世紀だろう―。「死の灰」は1980年代ヒロシマの光景やアウシュビッツ収容所、核実験場トリニティサイトを収録。さらに火山爆発によるポンペイの死者たちの石こう像も撮った。「核での滅亡は人災。避けることもできる―。そう叫ぶ石こう像の声を聞いた」

 8月6日午前8時15分、仏教や神道、キリスト教など宗教を超えてともに祈りをささげる宗教者の姿も収めた。「死の灰」収録作品は、国内とロシアで展覧会を開催。来年以降、米国をはじめ世界各地で開く。

 「ぼくは“間接的ヒロシマ体験者”なんです」。三島由紀夫や舞踏家土方巽(ひじかたたつみ)らを被写体に、肉体の美や躍動をとらえる芸術性の高い作品で世界的に知られた写真家は、心の底に原爆をテーマとして抱いてきた。

 東京育ち。山形県米沢市の母の実家に疎開した12歳の時、同級生3人が東京大空襲で死んだとの知らせに震えた。その夏、広島が新型爆弾で壊滅したと新聞で知る。「1個で10万人もが死ぬ爆弾。10機、100機が投下したら…。とにかく恐ろしかった」。身近な友の死と、被爆した広島が重なり、少年の胸に刻まれた。「いうなれば原爆に対する、決して消えない精神的トラウマ」。以来、写真家の中でうずき続けている。

 初めて広島を取材した1958年、まだつめ跡は生々しかった。壁や天井が真っ黒なままの本川小学校に衝撃を受けた。1960年代には米国の女性童話作家とヒロシマを題材に写真絵本の制作を進める。その夫で心理学者のロバート・リフトンとも多くの被爆者を取材。15年後の被爆者の姿も撮った。その後、ヒロシマそのものを取材してはいないが、生涯のテーマと位置付ける。

 「生命や人間を全否定する原爆を憎む。同時にその憎悪と同じだけ、新しい命の誕生を願ってもいる」。だから、写真集の最後に必ず、誕生や愛を思わせる作品を置く。

 2000年刊の写真集「ルナ・ロッサ」(新潮社)。黒く塗った男女の裸体をソラリゼーションの手法で表現した。「ぼくとしては黒焦げになった被爆者の姿も重ね合わせている」。最終ページには、「20世紀からのおくりもの」を配した。母親に駆け寄る幼児の姿がほほえましい。だが母の背にはケロイド。タイトルを考え合わせると、意味深長な作品とわかる。

 「原爆やヒロシマが想起され、考えさせる写真を撮っていきたい」。被爆国日本。核の脅威は消えるどころか、切迫しつつあるのに、危機感が希薄なのがもどかしい。人々のイマジネーションを刺激し、原爆を告発し続ける。

 ほそえ・えいこう
   山形県米沢市生まれ。東京写真短期大(現東京工芸大)卒。1960年、実験映画「へそと原爆」を脚本・監督。写真集に三島由紀夫の「薔薇刑」(1963年)、土方巽の「鎌鼬」(1969年)、大野一雄をモデルにした「胡蝶の夢」(2006年)など。英国王立写真協会創立150周年記念特別勲章、旭日小綬章など受章。76歳。東京都新宿区在住。

(2009年7月31日朝刊掲載)

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