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連載・特集

ヒロシマを撮る 5人の軌跡 <5> 川田喜久治さん

■記者 伊藤一亘

底流にドームのしみ 時代感覚からませ進化

 画面を埋め尽くし、黒々とした文様がうごめく。被爆から十数年、原爆ドーム内部の天井に現れた「しみ」の群れだ。大江健三郎は「黒暗暗として精緻(せいち)かつ偏執狂的な画面」と評した。まるで一つの抽象画のように、見る者の想像力を刺激する。

 週刊誌のカメラマンだった1957年、広島を撮影する土門拳のルポルタージュのため、初めて広島を訪れた。仕事を終えた夕刻、一人で原爆ドームに足を踏み入れ、暗く湿った天井を覆う「しみ」に目を留めた。

 「通常の風雨でできた『しみ』とは明らかに違った。とっさに、あの瞬間に焼きついた文様だと思った」。人間の黒々とした暴力、カタストロフィー(破滅)…。自身のヒロシマのイメージと「しみ」が結びついた。「理由も何もなく、即座にこの『しみ』が、記録しなければならないモニュメントだと直感した」

 高校時代に写真を撮り始め、卒業時に写真雑誌に投稿した1枚が特選に選ばれる。その時の選者が土門だった。「この偶然がなかったら、違った人生を歩んでいたかもしれない」

 自分を見いだしてくれた先輩とは違ったかたちで、いつかヒロシマを撮りたいと思いながら、自分がかかわれるモチーフがうまく見つからなかった。「この『しみ』を発見したことが、人生の大きなきっかけなった」と語る。

 フリーになって広島通いを重ね、原爆ドームで「しみ」という「声のないオブジェ」と向き合い続けた。それが、心理的、象徴的なイメージにウエートを置き、「モノ」に語らせる方向性を見いだす契機となった。

 初の写真集「地図」(美術出版社、65年)は、「しみ」を前面に出しながら、特攻隊員の肖像や廃虚と化した要塞(ようさい)、戦後の復興を暗示する町工場の鉄くず、占領軍が持ち込んだラッキーストライクの箱などで構成。第2次大戦や戦後の混乱する都市を象徴するモニュメントを散りばめた。

 「僕自身の地図であり、戦後日本の精神的な地図」。そう振り返る同写真集は、全ページ観音開きという独特のブックデザインと相まって、日本写真史で今も異彩を放っている。

 その後、欧州の庭園や城、日食などの天体現象、変ぼうを続ける都市など、テーマやモチーフを変えながら精力的に作品を発表し続けている。一見、何の関連もなく見えるモチーフの変遷。だがその底流には確かに、ドームの「しみ」が存在する。

 米中枢同時テロ以来、「何かひっかかるから」と、毎年「9・11」には東京でシャッターを切る。「いい写真には、見たままではなく、幻覚や幻想のようなイメージが浮き上がる。『しみ』は、そんなイメージを見いだす根源となる力を与えてくれた」。そこに鋭敏な時代感覚をからませ、作品が生まれる。

 昨夏、原爆ドームをテーマにした広島市現代美術館(南区)の企画展で「地図」の7点が展示された。「作風は絶えず進化しているので、『しみ』ばかり取り上げられるのも妙な感じがする。ただ、時代が変わりゆく中で、あのフォルムやイメージが、想像力を絶えず喚起する表現として受け止めてもらえれば」。最後に広島を訪れて40年余り。広島再訪の予定は今のところないというが、進化を続ける表現者が何を写し出すのか。見てみたい気がする。

かわだ・きくじ 
  茨城県土浦市生まれ。立教大卒。新潮社で「週刊新潮」創刊時からグラビアなどの撮影を担当し、1959年からフリー。写真家集団「VIVO」設立同人。96年東川賞国内作家賞、2004年芸術選奨文部科学大臣賞。作品集に「聖なる世界」(写真評論社)「世界劇場The Globe Theater」(私家版)など。76歳。東京都新宿区在住。

(2009年8月1日朝刊掲載)

 

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