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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <6> 

■編集委員 西本雅実

新聞記者 若気の至り 転職を探る

 日本が占領下から主権を回復した1952(昭和27)年、東京暮らしに区切りをつけ、広島へ戻った

 職に就かなくてはいけない。ちょうどRCC(中国新聞社にスタジオを設置。当時の社名は「ラジオ中国」)ができ、社員募集をしていた。ミキサーという職種が何をするのかも知らなかったが学科試験は通り、身体検査で「胸が悪い」とはねられた。別の病院で診てもらったら悪いところはない。文句を言いにいくと、今度は中国新聞社が募集するという。それで受けた。

 占領下時代のレッド・パージの影響があり、口頭試問では支持政党を聞かれたりもした。保守政党の名は挙げなかったが、幸いにも合格できた。入社は1952年9月です。

 文学青年だったので何か書きたいと思った。しかし配属先は希望と違って整理部。メシの種だと言い聞かせた。仕事に慣れると今度は部長が僕を手放さない。増ページが続いたこともあった。

 新聞用紙の統制は1951年に撤廃。各社は専売店を置き、新聞業界も自由競争の時代に入る。原爆による本社壊滅から立ち上がった中国新聞は1952年10月に朝刊統合版を8ページ、1954年に12ページとしていく

 僕らのころの整理は、(朝刊1面を受け持つ)面担が若くても共同通信の記事すべてに目を通して振り分け、紙面づくりの権限を握っていた。僕も社会面をやり、次は1面と勉強には随分なった。しかし書けない不満は消えなかった。

 上流川町(中区胡町)のころの新聞社は、給料日になると借金取りが会社の出入り口に大げさでなく並んでいた。新聞記者が「羽織ごろ」とやゆされた昔の雰囲気が残り、いわば梁山泊(りょうざんぱく)のような世界があった。

 でもね。僕も若気の至りというか結婚しても自分をかいかぶっていた。整理部で塩漬けにされているのに嫌気がさし、早稲田大の先輩がいた東京の出版社にわたりをつけ、退社を決意した。おかあちゃん(妻の房子さん)に打ち明けたら「二人目の子どもができた」という。で、東京に出るのをあきらめた。

 整理部を卒業したのは安保闘争の翌年だから1961年。組合役員(書記長)だった僕の人事異動をめぐるごたごたを、学芸部長の金井利博さんが聞きつけ引き取ってくれた。それで原爆問題を取材するようになった。

(2009年10月7日朝刊掲載)

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